第百三十話 逃げよ
そうしてタツタアゲとカニカマを退け、タコワサの望みだけは受け入れて、アカシは今、戦場へと向かっている。
ミズ族の集落よりはでき得るだけ離れた方がよい、と考えた。その距離のぶんだけ、集落のものどもは容易く逃げのびることができるだろう。
マ族の集落は堅牢だが、長き殻どもはその守りには寄らないであろう、と判じている。集落にこもっても、彼らに益はない。
むしろ集落内部での方が、アカシたちは有利に戦えるはずだった。
でき得るならば、長き殻どもが駐屯している内部に入り込み、隠れつつ少しずつ相手の力を減じたい。だがやり過ぎれば、敵はアカシたちを無視してミズ族の集落本体に喰らいつこうとするだろう。
大事なのは敵を討ち倒すことではなく、集落に近づけさせぬようにすること。そのことを、戦士たちには徹底して語ってある。
ただ狩りをし、そのうねりの腹を満たすだけで生きている種族であれば、考えもつかぬことだろう。
よい悪いはわからぬが。そういうものに、いつしかアカシたちは、なっていたのだ。
「敵が動き出す前に、叩ければよいが」
「備えはしておりましょう。クロトラ族が守りについていれば、厄介では」
アカシの後ろに続くタコワサが答える。触手を失ったとはいえ、どこまでも秀でた副官であった。
「入り込めるか」
「表で引きつけるものがいれば。投げ銛の名手がよろしいでしょう」
集落の外で守りの戦士たちの目を引きつけ、その間に内部に潜り込む。そう言っているのだ。
「……頼めるか」
「もとより、そのつもりで申しました」
「任せる」
連れてきた十頭の戦士とアカシ、そしてタコワサ。誰もが生きて帰る気などない。
「はじめる」
十二頭全員で、盛大に墨を吐き出した。ミズ族の集落では、目のよい戦士がこちらを窺っているはずだ。それは、逃げよ、の合図だった。
遠くに見えるミズ族の集落が、慌ただしく動きはじめる。大量に吐き出された墨が水に混じり、広がり、徐々にその遠景を塗り潰してゆく。
長き殻どもは、気付いているかどうか。だがすぐにも気付くだろう。
墨に紛れて、一頭、二頭と戦士たちが姿を消す。十頭すべてが水に消えてから、アカシも動いた。
マ族の集落も砂煙を上げる。異変に気付いた長き殻どもが、動きはじめたのだ。
墨が広がる水中の前面に、タコワサがただ一頭、大量の銛を背に縛りつけ、立っている。
その雄姿を最後に一瞥して。アカシも水へ紛れて消えた。




