第百二十四話 願い
「お前に逃げようといわれたとき。それもよいか、と思った。だがやはり、できぬ。俺はもう、大頭であるアカシから変わることはできぬ」
「そんなこと、ない」
アカシは胴を横に振る。
「お前にはわからぬかもしれんが。マ族と。ミズ族と。その他多くの、俺と関わり合いを持った者たちが、俺にはやはり、大事なのだ。それに」
スミソアエ。アマズガケ。シメノ=ゾウスイ。ウスヅクリ。
「様々なものを、俺は背負いすぎてしまった」
喰われたものたちからだけではない。生きているものどもからも、多くのものを預かっている。
「それらを捨てて逃げることなど。俺にはできぬ」
目の前のカルパッチョは、震えている。わかっている。カルパッチョにとって、アカシは唯一といっていい、繋がりだった。それをアカシは、容赦なく断ち切ったのだ。
「お前と一緒には逃げられぬ。すまん」
アカシは胴を下げた。
「わかった、もういい」
背を向け、カルパッチョが去ろうとする。
「カルパッチョ」
その背に、声をかけた。
「これからの道行き。お前の力が、きっと皆に必要になるだろう。そういうときが、来るだろう。これまでと、同じではないのだ。変わるということは、そういうことなのだ」
カルパッチョは立ち止っている。顔をこちらへ向けようとはしない。だが届いていると信じて。
「だからお前もいつか。お前の視界に、皆を入れてやってくれ。皆を、見てやってくれ。俺の、最初で最後の願いだ」
答えはない。ゆっくりと這い去ってゆくその背中を、見えなくなるまでアカシは追っていた。
これでよい。届いたかどうか、それはわからぬ。だが、言うべきことは言った。そんな気がした。
目を閉じ、こころに浸透しようとしていた毒を追い出す。それから手にした槍で、地を軽く突いた。
「そこにいるのだろう、マリネ」
目を見開き、近くの岩場に向ける。感じた気配は、一つではなかった。そしてもう一つの気配は、カルパッチョとは比べ物にならぬほど隠遁に優れたものだ。
ならば考えうる存在は、一頭しかいない。
そしてやはり。
岩壁から覗いたのは、大貝の殻を被った雌の戦士の姿だった。




