第百二十三話 毒
新たな種になるということは、おそらくそういうことではないだろう。
俺のようなものが、必要ない。そういう土地へ、種族は赴こうとしているのだ。
ふと、気配を感じて歩みを止めた。振り向くと、後からついてくるものがいる。短い触手を持つ、小さな身体。
「どうした、カルパッチョ」
どうやらあの場からここまで、あとをついてきたらしい。カルパッチョは小さな身体をぐるぐる回して辺りを確かめると、アカシに身体を寄せてきた。
「アカシ。あたしと逃げよう」
小声で囁かれたその言葉は、アカシの肉体をこわばらせた。
「自分が何を言っているのか。わかっているのか、カルパッチョ」
アカシもささやき声で返答する。うん、とカルパッチョはこともなげに肯いた。
「種族のために、アカシが死ぬことなんてない。どうせ皆、ここから逃げ出すんだ。あたしたち二頭がどこか別のところへ逃げて、そこで暮らしたって。誰にも。だれにも、わかりっこないんだ。今なら、それができるんだ。だからさ」
あたしと、逃げよう。真剣な体表で、カルパッチョは言った。
カルパッチョと二頭で、すべてを捨て、逃げる。その考えは、アカシの体表から内側へと沁み入ってゆく。
これまで考えもしなかった道すじだ。だがそれは、何とも甘美なものに、聞こえた。
そういう道すじも、あるのだろうか。そうして生きてゆく環も、あるのだろうか。
そこまで考えてから、振り払った。
いかぬ。これは毒だ。甘美な毒だ。いくつかの魚や種族が持ち得ている、あとから効いてくる類のものだ。
アカシが逃げるということは、あのパエリアを捨て置くということだ。それだけは、できない。
それに。
アカシは知った。知ってしまった。カルパッチョという雌の本質を。
この雌は、誰とも交わらぬ。肉体では交わることもあるだろう。だがその本質は、ただ一頭。己ただ一頭で生きていく。そういうものだ。そのこころが誰かと交わることは決してない。そういう雌だ。
賢すぎるのだろう。すべてが見えすぎるのだろう。だからこそ。すぐ近くにあるものに視線を向けるということは、しない。否、できぬのだ。
そしてそんな彼女の視線は、この道行きでこそ、必要となるものだ。これまで無駄なものと扱われていたカルパッチョという存在が。それが役立つのは、おそらくこれより先の巡りなのだ。
だからこそ。
「カルパッチョ。俺はお前とは、行けぬ」
カルパッチョを見据え、アカシはきっぱりと答えた。




