第百十三話 敗走
間に合わぬ。アカシは思った。
しかし。またそこに、泳ぎ、滑り込む影がある。
肉が落ち、細くなった八本の触手。そのうち二本に、アカシも見慣れた棒を握っている。
小頭の中で最も老頭の一頭。ウスヅクリ。
そのウスヅクリが、パエリアのはさみとカニカマの間に立ち塞がった。
パエリアのはさみが振るわれる。それをウスヅクリが棒で受け止め、滑らせる。
ウスヅクリの棒による技は、他の戦士たちには到底真似できぬ領域にある。しかし、そのような技をもってしても、パエリアの剛力はいなせるものではない。
水を切り裂き叩きつけられるはさみの先と岩に挟まれて、ウスヅクリは潰れた。いかに柔らかな肉体を持つマ族とて、耐えられる衝撃ではない。
そうしてウスヅクリがつくりだしたのは。波が一度揺れるぶんだけの、僅かでしかない間だった。
だが、それでよかった。
アカシは逃げた。後ろを振り返ることなく、動かせるすべての触手で水を蹴った。
それがウスヅクリに応える、唯一のことだと思ったからだ。
最早、どうにもならぬ。
パエリアの巨体は、半ば集落内まで入り込んでいる。いつの間にか、そこまで押し込まれているのだ。戦い方を見ても、ただ身体が大きく力強いだけの戦士でないことはわかる。パエリアは確実に、マ族の領域を侵していっている。
集落を放棄するしかない。そう思わされる位置まで、巧妙に群れを押し上げられていた。
「マ族のアカシって言ったか」
水を震わせる大音声が響く。パエリア。ちらりと振り返ると、頭部を大きく持ち上げている。
「てめえの纏っている殻。そいつは、アタシのもんだ。アタシが一度、自分の腹の中に入れたモンだ。だからなぁ。そいつと、てめえ自身をアタシの腹に収めるまで、アタシは満足しねえ」
怒り。執念。決意。その声から伝わってくるのは、そのようなものだ。
「逃げてもいい。逃がしてやるさ。だがなぁ。アタシはどこまでも追いかける。どこまでもだ」
それは、呪いの言葉だ。そしてパエリアはきっと、そうするだろう。
横走りで岩場を這うカニカマが、アカシを追って来る。パエリアの姿は、遠くになりつつある。
そのパエリアの周囲から、長き殻どもが湧き出し、集落を埋めてゆくのを、アカシは見た。
集落の者たちはすでに、皆逃げのびている。ただ一頭、すでに動けぬイワツノ族のツボヤキだけが、広場にうずくまっている。
そのツボヤキに多数の長き殻どもが群がり、アカシの視界からかき消した。
(第三幕 完)




