妹に婚約者を奪われたので決闘を受けたら、一撃で全部終わりました
王立学園卒業祝賀会の会場は、シャンデリアの灯りで満たされていた。
私はその隅で、誰にも気づかれないように佇んでいた。
華やかな声や笑い声が響く中、私だけが静かに周囲を見ていた。
エリシア・フォン・ローゼンベルク。
それが私の名前だ。
ローゼンベルク公爵家の長女として生まれ、金髪碧眼の容姿は社交界でそれなりに評判だった。
けれど本当に好きなものは、着飾ることでも噂話でもない。
剣だ。
王国騎士団が主催する女性剣術大会で、私は三年連続で優勝している。
仮面をつけ、素性を隠して出場していた。
公爵令嬢が剣を握るなど、外聞が悪いというのが父の考えだったからだ。
「王妃になるなら剣は不要だ」
父は何度も私にそう言った。
第一王子ハインハルト様との婚約が決まった日から、その言葉は私への命令のようなものになっていた。
表では大人しい令嬢を演じ、裏では剣を振るう。
それが、私が選んだ生き方だった。
物心ついた頃から、剣が好きだった。
兄がいなかった我が家では、社交界でどう振る舞うかが何より重視された。
それでも幼い私は、庭で騎士たちの稽古を眺めては、こっそり木の枝を振り回していた。
十歳の時、見かねた騎士団の一人が、内緒で稽古をつけてくれた。
それが全ての始まりだった。
剣を振るっている間だけ、私は公爵令嬢という肩書きから解放される気がした。
婚約者となったハインハルト様のことは、嫌いではなかった。
けれど、好きだったかと問われれば、素直に頷くこともできない。
政略で結ばれた関係に、深い情など最初から期待していなかったからだ。
一方で、妹のルシェルとの関係は、幼い頃からずっと歪んでいた。
彼女が何かを欲しがるたびに、両親は私からそれを取り上げ、妹に与えた。
おもちゃも、ドレスも、家庭教師の時間さえも。
私はいつしか、何かに執着すること自体をやめていた。
けれど今回だけは、話が違う。
婚約という、公爵家の未来そのものに関わる問題を、あの子は簡単に奪い取ろうとしたのだから。
会場の中央では、ハインハルト様が友人たちに囲まれて笑っていた。
その隣に、ルシェルが寄り添うように立っている。
金色の髪も、青い瞳も、私によく似た顔立ち。
けれど、纏う空気はまるで違った。
ルシェル・フォン・ローゼンベルク。
一つ年下の妹。
幼い頃から両親に甘やかされ、欲しいものは何でも手に入れてきた。
「お姉様の物は私の物」
それが、あの子の口癖だった。
私は静かにグラスを傾け、二人の様子を眺めていた。
胸の奥に小さな違和感があったけれど、それを表に出すつもりはなかった。
公爵家の娘として、感情を隠すことには慣れている。
けれどその夜、その違和感は的中することになる。
会場の音楽が止まり、ハインハルト様が壇上に上がった。
周囲の視線が一斉に集まる。
私も、グラスを置いて壇上に目を向けた。
「エリシア」
名前を呼ばれ、私は静かに前へ出た。
何かの余興だろうかと、その時はまだそう思っていた。
「私は今この場で、お前との婚約を破棄する」
会場がざわめいた。
私は表情を変えず、ただ相手を見つめ返す。
驚きはなかった。
むしろ、ようやくかという思いの方が強かった。
ハインハルト様の隣に、勝ち誇った笑みを浮かべたルシェルが並ぶ。
その姿を見て、私は全てを理解した。
「お姉様は地味で面白くありませんもの。王子殿下には私の方がお似合いですわ」
ルシェルは扇を広げ、口元を隠しながら笑った。
その声は、会場中に響くよう計算されたものだった。
彼女はさらに一歩近づき、扇の先で私の頬を軽く叩く。
「負け犬は黙っていなさい」
痛みはほとんどなかった。
けれど、公衆の面前でのその行為は、痛み以上の意味を持っていた。
周囲の貴族たちが、興味深そうにこちらを見ている。
助けを求めるように父の方を見た。
父は眉一つ動かさず、こう言い放った。
「黙って従え」
その言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
父にとって、私は娘である前に、王家との繋がりを保つための道具に過ぎなかったのだと、改めて思い知らされる。
けれど、私の心はすでに凪いでいた。
怒りを覚えた時、私は言葉を失う代わりに、頭の芯が冷えていく質だ。
今がまさにそれだった。
私はルシェルをまっすぐに見据え、静かに口を開いた。
「貴女は今、私に決闘を申し込みましたね」
ルシェルの笑みが、一瞬止まった。
「な、何を言って……」
「王国貴族法をお忘れですか」
私は淡々と続けた。
「公衆の面前で相手を叩き、名誉を傷つけた場合、相手には決闘を要求する権利が生まれます」
会場がどよめいた。
貴族たちの間に、緊張と好奇心の入り混じった空気が広がっていく。
ルシェルの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「そ、そんなつもりじゃ……ただ少し、恥をかかせるつもりで……」
彼女の声は、もはや先ほどまでの余裕を失っていた。
けれど、口にした言葉と行為は、もう取り消せない。
貴族社会において、一度成立した決闘の申し込みを覆すことは、それ自体が家の名誉に関わる大事だった。
沈黙を破ったのは、ハインハルト様だった。
「受けて立て!ルシェルが負けるはずがない!」
その一言で、決闘は正式に成立した。
王子自らの発言は、事実上の承認と同義だ。
周囲の貴族たちも、もう誰も異を唱えなかった。
私はただ静かに一礼し、会場を後にした。
背中に突き刺さるような視線を感じながらも、心は驚くほど穏やかだった。
ようやく、仮面を外せる時が来たのだと、そう思っていたから。
翌日、王都闘技場に足を踏み入れた瞬間、私はようやく息ができるような気がした。
観客席には、王都中の貴族や騎士団員たちが詰めかけている。
昨夜の一件は、瞬く間に社交界を駆け巡ったのだろう。
誰もが好奇の目でこちらを見ていた。
私は控室で、使い慣れた木剣を手に取った。
仮面をつけた大会用の装いとは違い、今日は素顔のままだ。
隠す必要は、もうどこにもない。
「本当によろしいのですか、お嬢様」
付き添いの侍女が、心配そうに声をかけてくる。
私は小さく頷いた。
「大丈夫よ」
短く答え、私は剣を構え直す。
「これは、私が選んだことだから」
侍女はそれ以上何も言わず、深く頭を下げて下がっていった。
闘技場の中央には、すでにルシェルの姿があった。
昨日までの勝ち誇った表情はどこにもなく、彼女は落ち着かない様子であたりを見回している。
木剣の握り方さえ、様になっていない。
無理もない。
彼女は剣を握ったことなど、ほとんどないはずだ。
それでも引くに引けない状況に、自分自身を追い込んでしまった。
観客席の最前列には、父とハインハルト様の姿がある。
父は相変わらず表情を変えず、ハインハルト様は落ち着かない様子で貧乏ゆすりを繰り返していた。
審判を務める騎士団長が、両者の間に立つ。
「両者、位置について」
その声に従い、私はルシェルと向き合った。
距離にして十数歩。
これだけ離れていても、彼女の震えがはっきりと見て取れる。
「お、お姉様が本気を出すはずがないわ」
ルシェルが震える声で呟いた。
「所詮、剣なんて触ったこともないくせに……」
その言葉に、私は何も答えなかった。
答える価値もない。
ただ静かに木剣を構え、意識を研ぎ澄ませていく。
騎士団長が右手を高く掲げた。
「では――始め!」
十秒。
それだけの時間で、全てが決まった。
合図と同時に、ルシェルは大声を上げながら突っ込んできた。
剣筋も何もない、ただの体当たりに近い一撃。
私はそれを半歩だけ横に逸らし、彼女の木剣を下から弾き上げる。
「え――」
驚きの声を上げた瞬間には、もう彼女の得物は宙を舞っていた。
乾いた音を立てて地面に転がる木剣。
私はそのまま足を払い、体勢を崩したルシェルの喉元に切っ先を突きつけた。
会場は水を打ったように静まり返っている。
誰も声を上げず、ただ呆然とこちらを見つめていた。
「そ、そんな……」
ルシェルは尻もちをついたまま、信じられないという顔で私を見上げていた。
先ほどまでの余裕も、勝ち誇った表情も、もうどこにもない。
沈黙を破ったのは、審判を務める騎士団長だった。
「やはり――銀閃の剣姫だったか」
その呟きに、観客席がどよめいた。
仮面をつけて戦っていた女性剣術大会の覇者。
その正体が、公爵家の令嬢だったという事実に、誰もが驚きを隠せずにいる。
私は静かに剣を下ろし、一歩下がった。
もう隠す必要のない事実を、今さら取り繕うつもりもなかった。
観客席の最前列で、ハインハルト様の顔が青白く強張っているのが見えた。
自分が切り捨てた相手が何者だったのか、ようやく理解し始めたのだろう。
けれど、ルシェルはまだ現実を受け入れられずにいた。
「認めない……こんなの、認めないわ!」
叫びながら、彼女は素手のまま私に飛びかかってきた。
剣を失ったことも、勝敗が決したことも、もう頭にないようだった。
私はその勢いを軽くいなす。
ただそれだけで、ルシェルは自分の勢いに負けて地面に転がった。
砂埃を巻き上げながら、無様に這いつくばる格好になる。
観客席から、失笑が漏れた。
昨日まで勝ち誇っていた令嬢の、あまりに惨めな姿。
これまで散々見下されてきた貴族たちが、今度は冷ややかな目でルシェルを見下ろしている。
「お姉様、の、物は……」
震える声で、ルシェルは何かを言いかけた。
けれど、続く言葉は出てこなかった。
自分の口癖がどれほど空虚だったか、今この瞬間に思い知らされているのかもしれない。
――その時だった。
ルシェルの身体が、びくりと大きく痙攣した。
這いつくばったままの姿勢で、彼女の瞳が恐怖に見開かれる。
喉元に突きつけられた切っ先の残像。
十秒で全てを奪われた事実。
そして、何千もの視線が突き刺さる公開の場。
その全てが、遅れて一気に彼女の精神を打ち砕いたのだ。
「……あ……」
掠れた吐息が漏れた次の瞬間、彼女の下半身から、抑えきれない熱い流れが溢れ出した。
恐怖が極限に達した身体は、絶対守らなければいけない大事な部分の制御すら完全に放棄してしまった。
淡い色の決闘用ドレスの裾が、みるみるうちに濃く色を変えていく。
最初は小さな染みだったものが、容赦なく広がり、腰から太もも、膝下へと、湿った布地が重く貼りついていくのが、はっきりと見て取れた。
砂埃混じりの闘技場の地面に、熱い雫が点々と落ち、やがて止まらない流れとなって、じわり、じわりと円を描くように水たまりを広げていく。
「や……やめて……止まって……!」
ルシェルは両手で自分の裾を押さえようとしたが、震える体ではうまくいかない。
むしろその仕草が、広がる湿った跡をより多くの視線に晒す結果となった。
這いつくばったまま、太ももを伝う熱い感触に彼女の身体が小さく痙攣し、すでにできた水たまりの中に膝をついたまま動けなくなっていく。
会場中から、押し殺しきれない失笑と、息を呑むような短い囁きが爆発した。
「……今、漏らした……?」
「公爵令嬢が……公衆の面前で……」
「十秒で負けて、恐怖で失禁……?」
「あの傲慢な子が、こんな無様に……」
その一部始終は、王都闘技場という最も人目の多い場所で、包み隠さず全ての人々の目に晒されている。
かつて「お姉様の物は私の物」と嘯き、勝ち誇って姉の頬を扇で叩き、婚約者を奪った妹の姿が、今や失禁したまま地面に這いつくばり、顔を真っ赤に染め、肩を小刻みに震わせながら、自らの汚した水たまりの中に座り込んでいる光景として、王都中の記憶に深く刻み込まれていく。
ルシェルの顔は、羞恥と恐怖のあまり耳の先まで真っ赤に染まっていた。
目元からは大粒の涙が次々とこぼれ落ち、それが頬を伝って顎から滴り、すでに広がった水たまりに落ちていく。
彼女は何度も小さく首を振り、嗚咽を漏らしながらも、止まらない流れと、突き刺さる視線から逃れることすらできずにいた。
「う……うわあああっ……!」
最後には、子供のように泣き叫ぶ声だけが、静まり返った闘技場に虚しく響いた。
その惨めな姿は、十秒での敗北そのもの以上に、彼女の全てを象徴する結末として、観客全員の心に焼き付いた。
私はそれ以上、彼女に目もくれなかった。
剣を鞘に収め、静かに闘技場の中央に立つ。
同情も、嘲笑も、特に湧かなかった。
ただ、これが彼女自身の選んだ結果なのだと、そう思うだけだった。
ハインハルト様が席を立ち、慌てた様子でこちらに駆け寄ってきた。
「エ、エリシア……待ってくれ、婚約破棄の件は――」
「殿下」
私は彼の言葉を遮り、静かに告げた。
「婚約破棄は、確かに受理いたしました」
その一言で、彼の顔から完全に血の気が引いた。
撤回できないことを、ようやく理解したようだった。
貴族社会において、一度公に宣言された婚約破棄は、当人の都合だけで覆せるものではない。
その時、観客席の奥から、二人の人物が姿を現した。
第二王子ヴィルヘルム様と、騎士団長だ。
「見事な剣技でした、エリシア嬢」
第二王子は穏やかな声でそう言うと、私の前に立った。
「実は以前より、王国騎士団はあなたを迎えたいと考えておりました」
騎士団長が続けて頷く。
「副団長として、正式にお迎えしたい。これは王家からの正式な要請でもあります」
会場にどよめきが広がった。
公爵令嬢が、王国騎士団の副団長として迎えられる。
それは、貴族社会において前例のない出来事だった。
ハインハルト様は、ただ立ち尽くしていた。
自分が切り捨てたのが、婚約者としてだけでなく、王国屈指の剣士でもあったという事実。
その重みを、今ようやく飲み込もうとしているようだった。
あの日を境に、私の人生は大きく動き出した。
闘技場での一件は、瞬く間に王都中に広まった。
仮面の剣士"銀閃の剣姫"の正体が、ローゼンベルク公爵家の令嬢だったという事実は、社交界にとって格好の話題だったのだろう。
どこへ行っても、その話ばかりが聞こえてくる。
ルシェルの評判は、坂を転げ落ちるように地に堕ちていった。
「お姉様の物は私の物」
そう嘯いていた妹が、剣を持ったこともないまま姉に決闘を挑み、十秒で叩きのめされた。
しかも最後は無様に地面を這いつくばり、恐怖のあまり公衆の面前で失禁までしてしまった。
社交界の噂話は、それだけで十分すぎるほど残酷だった。
「口だけ令嬢」
「十秒失禁令嬢」
いつしか、そう呼ばれるようになったらしい。
かつて彼女に媚びへつらっていた令嬢たちも、手のひらを返したように距離を置き始めた。
茶会に呼ばれることも、夜会で誰かに声をかけられることも、目に見えて減っていったという。
風の噂で、ルシェルが領地の別邸に下がったと聞いた。
表向きは静養ということになっているが、実際には社交界に顔を出せなくなったのだろう。
かつて姉から何もかも奪おうとした妹の末路として、それはあまりに寂しいものだった。
けれど、それだけでは終わらなかった。
決闘の恐怖があまりにも強烈だったのか、ルシェルには後遺症が残ったらしい。
夜になると、幼い頃のように――おねしょが再発するようになったのだ。
別邸の侍女たちがどれほど気を遣っても、シーツを替えても、彼女の身体は夜の闇の中で制御を失い続けた。
その事実は、すぐに別邸の使用人たちから漏れ、領地の街へと広がった。
「決闘で失禁した令嬢が、今では夜な夜なおねしょをしている」
「銀閃の剣姫に一刀両断された恐怖が、まだ抜けないらしい」
「朝になると侍女たちがシーツを干しているのが見える」
街の人々は、かつての傲慢な公爵令嬢を笑いものにした。
市場で噂を耳にした商人たちが笑い、子供たちが「おねしょ令嬢」と囃し立て、通りを歩けば指を差される。
別邸の窓からシーツが干されているだけで、近隣の者たちが遠巻きに眺めては囁き合うようになったという。
私はその話を、騎士団の同僚から間接的に聞いただけだった。
同情は湧かなかった。
ただ、彼女が自ら蒔いた種が、こうして遅れて、より惨めな形で実を結んでいるのだと、静かに思うだけだった。
公衆の面前での失禁は一過性の恥だったが、夜ごとに繰り返されるおねしょと、それが街中に知れ渡った事実は、彼女の誇りをゆっくりと、確実に削り取っていくだろう。
一方、ハインハルト様の立場も大きく揺らいでいた。
婚約者であった私を――しかも王国屈指の剣士であったことを知らぬまま、妹の言葉だけを信じて婚約を破棄した。
その軽率さは、王家の中でも厳しく問題視されたという。
王位継承権を巡る序列の中で、彼の順位は大きく引き下げられた。
第二王子ヴィルヘェルム様が、その分だけ前に進み出ることになったとも聞く。
かつて婚約破棄を高らかに宣言した壇上の彼が、今どんな顔をしているのか、私にはもう知る由もない。
父は、しばらくの間、私を避けるようにしていた。
「王家に逆らうな」
そう言い放った父にとって、私が王国騎士団の副団長として迎えられたことは、皮肉としか言いようのない結末だったのだろう。
それでも公爵家としては、王家との縁が完全に切れたわけではなく、むしろ別の形で繋がりを保てたことに、内心では安堵していたのかもしれない。
私自身は、そうした思惑には興味がなかった。
騎士団の制服に袖を通した朝、鏡に映る自分の姿を見て、私は小さく息を吐いた。
これまでずっと隠してきたものを、ようやく堂々と身につけられる。
その事実だけで、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「エリシア副団長」
同僚となった騎士たちが、そう呼びかけてくる。
仮面の剣士として戦っていた頃とは違う、素顔のままの自分への呼びかけ。
それが、これまでのどんな賛辞よりも心地よかった。
剣を握って生きること。
それは、父に禁じられてから、ずっと諦めかけていた道だった。
けれど今、私はその道を、誰に隠すこともなく歩き始めている。
数ヶ月後、王城で行われた式典の場で、私は再びハインハルト様と顔を合わせた。
彼はもう、以前のような自信に満ちた表情をしていなかった。
継承順位を下げられ、周囲からの視線も以前とは違うものになっているのだろう。
私を見る目には、後悔とも羨望とも取れる複雑な色が浮かんでいた。
「エリシア……今でも、時々思うんだ。あの時、違う選択をしていたらと」
私は彼をまっすぐに見つめ、静かに答えた。
「殿下」
「今の私に、殿下と語り合う過去などございません」
それだけ言うと、私は一礼して踵を返した。
振り返ることはしなかった。
過去に囚われるには、私にはやるべきことが多すぎる。
窓の外に広がる王都の街並みを眺めながら、私はふと、あの卒業祝賀会の夜を思い出していた。
奪われたと思っていたものは、本当に奪われたのだろうか。
婚約という枠に縛られていた頃の私よりも、今の私の方がずっと自由で、ずっと自分らしい。
剣を握り、風を切る感覚。
仲間として認められる誇らしさ。
それら全てが、あの婚約破棄という出来事がなければ、決して手に入らなかったものだ。
「私から奪ったつもりだったのでしょうけれど」
私は誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
「失ったのは、貴方たちの方でしたね」
夕陽が差し込む王城の廊下を、私は一人、静かに歩いていく。
新しい制服の裾が、風に揺れていた。
これから始まる人生に、迷いはもうどこにもなかった。
終幕




