第九十八話「鏡のない化粧室」
鏡は、真実を映すとは限らない。
ときに、それは“見たくない自分”や、
“忘れられた誰か”をも映し出す。
依頼者は、地下街にある小劇場で働く照明スタッフの女性だった。
「地下一階の奥に、使われていない化粧室があるんです。
鏡が外されてて、照明も壊れてるはずなんですけど……
なぜか、そこを使ったお客さんが“鏡で自分を見た”って言うんです」
しかも全員が、こう続ける。
「鏡の中の私は、動いてなかった。
ただ、じっと笑ってたんです」
その化粧室は、雑居ビル地下の廊下を突き当たった先にあった。
老朽化で使用禁止になってから数年、照明もなく、
内部はほこりと湿気に包まれていた。
俺が扉を開けた瞬間、
湿気の奥に、微かに甘い香りが漂った。
化粧品と、石鹸と、花の香り――
どこか懐かしい、女の人の気配。
個室は三つ、洗面台は一つ。
壁には明らかに鏡が外された跡が残っている。
だが、その位置をスマホのカメラで写すと、
画面の中には、“鏡が嵌め込まれている”ように見えた。
しかも、その“鏡の中”には、俺が映っていない。
代わりに、口元を吊り上げた“誰か”が、こちらを見ていた。
この地下街はかつて、劇場ではなく化粧品問屋の倉庫として使われていた。
さらに調査を進めると、二十年以上前――
そこのトイレで一人の女性社員が失踪したという記録が出てきた。
彼女は社内でパワハラに遭い、
「毎日、鏡を見るのが怖い」と日記に書き残していたという。
その夜、俺は化粧室で線香を焚き、
外された鏡の位置に小さな銀の手鏡をそっと置いた。
そして、こう呟いた。
「もう、映さなくてもいい。
あなたがあなたを見失った日々は、終わった」
瞬間、鏡の跡からふっと風が吹き抜け、
スマホの画面から“笑っていた顔”が消えた。
依頼者が確認に来た翌日、
化粧室の中には、なぜか一輪の椿の造花が洗面台に置かれていた。
香りは、甘く、優しかった。
次回・第99話「影のつかない男」では、
夜の通勤電車のホームにて、“影のない男”が現れる。
だが、その男が通ったあとは、誰かの影が必ず消えているという。




