第九十五話「指の落ちる音」
語られなかった形は、
ときに沈黙のまま声を上げる。
落ちる指は、
忘れられた身体の“名残”。
都心から少し外れた、美術館の収蔵庫。
作品保護のため厳重な温度管理と監視カメラが設置されたその部屋で、
夜な夜な“何かが床に落ちる音”が記録されていた。
「コツン……コツン……と、何か硬いものが落ちる音が続くんです。
でも映像には、何も写っていない。落ちたものもない。
けれど、翌朝床を掃除すると、石膏の指のような破片が落ちているんです」
依頼を受け、俺は夜の収蔵室に入った。
収蔵室には、複数の石膏像が並んでいた。
彫刻、トルソ、マネキン。
そのうちひとつ、両手のない像が一際目を引いた。
名札にはこう書かれていた。
《無名の婦人像 制作者不詳/寄贈・未登録》
この像が、ここに搬入されたのと同時期に、落下音の報告が始まっていたという。
深夜0時をまわると、室温が少し下がり、
乾いた空気の中で、突如――
「コツン……」
確かに、床に何かが落ちた音がした。
振り返ると、像の足元に、白い指のような破片がひとつ転がっていた。
まるで、誰かが「自分の身体を分けている」かのように。
俺はその破片を手に取り、
像の手首の切断面に近づけてみた。
だが、接合部はまったく一致しない。
つまり――これはこの像の指ではない。
破片の組成を調べると、それは20世紀初頭の人体模型に使用された石膏と一致していた。
この美術館は戦時中、陸軍の衛生兵学校だった。
その地下に、人体標本を保管する施設が存在していたという記録がある。
戦後、その多くは処分されることなく、石膏の骨格や肉体模型として美術品と共に移管された。
「落ちている指は、語られなかった“標本たち”の声だ」
俺は像の前に、かつて解剖学教材に用いられていた標本箱を一つ置いた。
箱の中には、いままで落ちた“指”を丁寧に並べて納めた。
その上に一枚の短冊を添える。
「あなたの形は、もう充分に描かれました。
どうか、休んでください」
その夜以降、収蔵室で音が鳴ることはなくなった。
ただ、翌朝、標本箱の中の“指”のひとつが、
わずかに“笑っているような彫り”に見えたという報告があった。
次回・第96話「赤い部屋のリプレイ」では、
廃業した旅館の一室で、同じ夢を繰り返し見るという相談が寄せられる。
夢の中、赤い障子の向こうで待つ誰かが、
「まだ来ていない」と囁き続けている――。




