第八十九話「井戸の底の声」
声は、消えても、
聞こうとする誰かがいれば、
いつか届く。
都内郊外、再開発が進む一角で、古井戸が発見された。
当初は埋め戻される予定だったが、現場作業員が作業中にこう訴えた。
「井戸の底から、名前を呼ばれた……
“たすけて、なお”って……」
井戸はフタと鎖で厳重に封じられていた。
中を確認する機材も、なぜか直前で故障するという。
俺が現地に赴いたのは、夜の9時。
真新しい住宅街に囲まれた一角だけ、ぽっかりと空いた空き地。
その中心にぽつりと、石組みの井戸が残されていた。
風もないのに、地面の草だけがそよいでいる。
耳を澄ますと、確かに細い女の声が聞こえた。
「なお……ここにいるよ……」
再開発前、この土地には木造のアパートが建っていた。
古い住民票を調べると、“直”という少女が6歳のとき、突如失踪していた。
警察の記録では「家庭の事情による転居」とされたが、届け出の記録は存在しない。
その家には、継父との確執があったという話も残っていた。
俺は地元の古書店で、偶然ひとつの新聞スクラップを見つけた。
20年前、深夜に一人の男性が、泥酔状態でこう話したという。
「あのガキ……うるさかったんだよ……
井戸に……投げて……」
事件にはならず、記事は打ち切られていた。
翌日、俺は関係者の許可を得て、井戸のフタを開けさせた。
中は暗く、深い。
底には汚泥が溜まり、何があるか見えない。
だが――風が逆流するように吹き上がり、かすかに声が浮かんだ。
「もう、泣かないから……
もう、さびしくないよ……」
俺は小さな花を井戸の縁に供えた。
名も書かれていなかった墓標のかわりに、
白い折り鶴を添え、静かに祈る。
「なお……ここにいると、みんなわかったよ。
だから、もうひとりじゃない」
その瞬間、井戸から吹いた風が止まり、
草の音が消えた。
空に、雲が一筋流れていく。
井戸は静かに封じられ、数日後、開発用地に緑地が設けられることが決まった。
そこには小さな石碑が建てられた。
「なお ここにやすらう」
次回・第90話「光のない信号」では、
郊外の交差点に現れる、灯らない信号機。
夜中、青も赤も点かないはずのその場所で、
“見えない車”が通り過ぎる――。




