第八十八話「見えざる掃除夫」
“働きすぎた”という呪いは、
時に、死んでも解けない。
だが、誰かの言葉が――
その魂を、解放することがある。
依頼は、都心のとある中堅広告会社からだった。
「深夜、誰もいないはずのオフィスが……
朝になると完璧に掃除されてるんです。
ホワイトボードに消した覚えのないメモ。
提出していない資料が、完成された形でプリントされていたり」
最初は社員の善意かと思われたが、
防犯カメラには“誰も映っていない”。
それどころか、その現象に気づいた社員が次々と休職していく。
理由はみな口をそろえて言った。
「“誰かが見ていた”気がして、もう戻れない」
俺がオフィスに入ったのは午前2時。
ビルの明かりは落ちていたが、エレベーターは最上階で勝手に止まったままだった。
執務フロアは、異様なほどに静かだった。
机は整頓され、資料は色分けされてトレイに収まっている。
不自然なまでの完璧さ。
それは“人の手”によるものではなく、“習慣に取り憑かれた者”の仕事だった。
午前3時ちょうど。
ホワイトボードに、何もなかったはずの面にゆっくりと、黒い文字が浮かび上がる。
「優先タスク:会議資料/社内報告/定期清掃」
まるで、**死んだ誰かの“業務リスト”**のようだった。
俺はビルの管理記録を洗い、ある名前に辿り着く。
杉山賢一。
10年前にこのビルで過労死した元社員。
残業の果てに倒れ、そのまま朝まで誰にも気づかれなかった。
彼の仕事机は、今も同じ場所にあった。
彼が使っていたIDカードは、未だにシステムにログイン記録を残していた。
「彼は、いまだ“仕事”を続けている」
俺は深夜3時半、ホワイトボードの前に座り、一言だけ書いた。
「杉山さん、お疲れ様でした。
もう、帰っていいんですよ」
静寂。
一瞬、全フロアの蛍光灯が一斉に点滅し、そして沈黙が訪れる。
翌朝、ホワイトボードは白紙に戻っていた。
社員のひとりが言った。
「……あれ以来、誰かの視線を感じなくなりました」
次回・第89話「井戸の底の声」では、
都市再開発の進む地域で見つかった“封印された井戸”。
そこに耳を近づけると、誰かの名を呼ぶ声が聞こえるという。
探偵は、“埋められた過去”の声に耳を澄ます――。




