第七十七話「消えた記憶」
記憶は宝ではない。
それは時に、刃にもなる。
それでも、
人は忘れたくない何かを探し続ける。
冬の午後。
探偵事務所の扉を開けて入ってきたのは、見るからに疲弊した中年男だった。
「……俺の記憶を、探してほしい」
名を北条真というその男は、三日前、自宅近くの公園で意識を失って倒れていた。
目覚めると、自分の名前と職業以外の記憶が、ごっそりと抜け落ちていたという。
奇妙だったのは、彼が持っていた古い写真。
そこには、見知らぬ少女と写る自分の姿――
しかし、背景は完全に黒く塗りつぶされていた。
調査を始めた俺は、彼の過去にまつわる断片を掘り起こしていった。
職場の同僚、かつての友人、疎遠になった家族。
どこか皆、口を濁した。
「……あいつのことは、もう思い出したくない」
誰もがそう言う。まるで、“思い出すこと”が禁忌であるかのように。
やがて、一人の老看護師が口を開いた。
「あの人、娘さんを亡くしたんです。
数年前、心中事件で――でも遺体は、彼女の分しか見つかっていない」
男の記憶が欠落したのは、ある日突然ではなく、
思い出さないよう“自ら切り落とした”ものだった。
写真の黒く塗られた背景には、その現場が写っていた。
愛娘と最後に立った、高台の崖。
俺は男に真実を告げなかった。
代わりに、こう言った。
「思い出すべき記憶と、
忘れて生きるべき痛みは違う。
君は、まだ生きている。
それだけが事実だ」
男は黙って頷き、写真をそっと鞄にしまった。
扉を閉める彼の背は、少しだけ軽くなっていた――ように見えた。
次回・第78話「顔のない訪問者」では、
毎晩訪れる“顔のない客”と、密室で消えた鍵の謎。
探偵は、見るべきものを失った者の足跡を追う。




