第六十八話「泥の花嫁」
約束のない誓いは、
水の中で腐ってゆく。
だが、名もなき花嫁の影も、
いつかは“自分のための出口”を見つける。
依頼は、関東北部の小さな村――**朽木村**から届いた。
内容は簡潔だった。
「村の沼で、濡れたウェディングドレスが見つかりました。
夜ごと誰かが歩く気配がして、村の人間は皆怯えています。
探している“花嫁”が、まだここにいる気がするのです」
村に着いたのは霧深い夕方。
一面に広がる田畑の奥に、小さな沼があった。
そこに、白い布が引っかかっていた。
現地で俺を迎えたのは、村の助役を務める老人・宮内泰造。
深く皺の刻まれた顔で、ぽつりと語った。
「あれはな、二十年前に駆け落ちした女の衣装だ。
……いや、“駆け落ちに失敗した”女だ。
当時の花嫁・佐伯美弥子は、
結婚式当日に村から姿を消した。
“好きな男と逃げる”と書き置きしてな――」
だが彼女は、どこにも現れなかった。
男も、村を出たまま戻らず。
結婚相手だった旧家の跡取りは、のちに別の女と結婚し、今は村を出ている。
夜。
俺はひとり、沼のほとりに立った。
霧の中、月はぼんやりとした円盤のようで、足元の泥が吸い付くように重い。
風が止み、ぴちゃり……と水音。
……カサ……カサ……
湿った衣擦れの音が、背後でした。
振り返ると、白い影が沼沿いの道を歩いていた。
ウェディングドレスを着た女の影。
しかし、顔は見えない。
頭部全体が“黒く塗りつぶされたように”空白だった。
俺は静かに呼びかけた。
「……美弥子、なのか」
「…………」
「どこへ行こうとしている」
女の影はゆっくりと振り返る。
その輪郭の中、闇がわずかに揺らぎ――
“口の形”だけが浮かんだ。
「……まってるの……」
翌日、村の公民館で古い新聞の切り抜きを見つけた。
1990年代半ば。
「若い男女が心中か」と見出しのついた記事には、
隣村の川で身元不明の女性の遺体が発見されたとある。
所持品なし。だが、沼で見つかったドレスと同じメーカー名がタグにあった。
そして死んだ場所は、“美弥子が逃げようとした男の家の近く”――
真相はこうだ。
美弥子は逃げた。だが、逃げ先で受け入れられなかった。
男は彼女を捨てた。
彼女は、ドレスを着たまま川に入り、
戻らぬまま“誰にも認められなかった花嫁”として、記憶の沼に沈んだ。
夜、再び沼に立つ。
俺は静かに声をかけた。
「――君の結婚式は、
ここじゃない。
誰かの許しの中にあるんじゃない。
自分が選んだ、そのときにしか――終わらないんだ」
霧の中、白い影が止まる。
数秒後、ふっとドレスの裾がほどけるように崩れ、
霧に融けるように――姿は消えた。
翌朝、沼の畔には花一輪。
濡れたブーケのような姿で、
忘れられていた草花が咲いていた。
次回・第69話「骨の中の声」では、
山中で見つかった古い白骨遺体。
その傍らに残された“録音機”には、
死者の声ではなく――“何かを告白する声”が入っていた。




