第六十七話「黒塗りの遺書」
言葉は、時に凶器だ。
けれど、
言えなかった言葉の方が、
もっと深く、誰かを縛りつける。
都内・旧都立総合病院。
数年前に閉鎖されたこの病棟では、現在、解体に向けた整理作業が進んでいる。
その中で――1冊の遺品箱が問題となった。
病院職員から直接の依頼を受け、俺は現場へ向かった。
鉄製の古びたロッカーから見つかったのは、
20年以上前にこの病棟で亡くなった末期がん患者・柚木伊佐子の遺品。
中にあった一通の遺書――
ほぼ全文が黒のマジックで塗りつぶされていた。
宛先は「息子へ」とだけ残っている。
だが、名前も、内容も、ほとんどが不明。
不可解なのは、“塗りつぶされたのが本人の死後”である可能性が高いこと。
病棟の記録では、伊佐子には一人息子がいたが、
彼は母の死後、すぐに転居し行方不明。
残された看護記録の中に、唯一の手がかりがあった。
看護師のメモにこうある。
「最期の日。彼女は『どうしても伝えたいことがある』と繰り返していた。
“言葉が怖い”とも……。
“でも書かなくちゃ、後悔する”と。」
俺は遺書を精査する。
黒塗りの下に、微かに筆圧の跡が残っていた。
筆記具の種類と筆圧の傾向から判断するに、
2種類の筆跡が混じっている。
上段と末尾は細く繊細な文字――伊佐子本人。
だが中段の黒塗りには、塗る動作そのものに“焦り”と“力強さ”がある。
つまりこれは、塗った人間が別人の可能性が高い。
翌日、俺は区役所を通じて、柚木伊佐子の戸籍をたどった。
そしてついに、行方不明だった息子――**柚木隼人**に辿り着いた。
今は地方の工場で働き、身を潜めるように暮らしていた。
訪ねて真相を問うと、彼は顔を伏せて言った。
「……あの遺書を見たとき、怖くなったんです。
何が書いてあるか、わからないけど……
“自分を呪うような言葉だったら”って思った」
彼は、母を看取らずに家を出た。
理由は単純だった。
「もう耐えられなかった」のだ。
看病の重さ、周囲の視線、
そして――母の目が、何かを責めているように見えたこと。
「でも、本当はわかってた。
……母はきっと、俺を責めたくなんか、なかった。
遺書も……最後に、赦してくれる言葉だったかもしれない。
でも、“読む資格がない”って思った。
だから……塗ったんです」
俺は遺書を机に置いた。
そして、ブラックライトを当てた。
黒インクの下に、浮かび上がった言葉は一行だけ。
「あなたが生きてくれれば、それでいい」
隼人は、膝から崩れ落ちた。
涙は出なかった。
ただ、十数年分の重さが、肩から落ちていった。
帰り際、俺は言った。
「伝えたい言葉は、
時に“消されても”、残るものだ」
次回・第68話「泥の花嫁」では、
農村の沼地で見つかった“濡れたウェディングドレス”を巡る依頼。
姿なき“花嫁”が、夜ごと村を歩くという噂。
探偵は、湿った記憶と水底の約束を探る。




