第六十六話「灰の家」
残るのは、物じゃない。
時間だ。
言葉にできなかった時間だけが、
そこに“影”を置いていく。
午後、探偵事務所に届いた封筒には、
焦げたような跡のついた便箋と、
1枚のポラロイド写真が入っていた。
写っていたのは――黒焦げになった床に焼き付いた“人の影”。
差出人不明。
便箋にはただ一言だけ。
「彼女は、まだ帰っていません」
現場は都内郊外、十数年前に全焼した一軒家の跡地。
更地に近いが、わずかに基礎と床の一部が残っている。
そこに――確かに“焼き焦げた人の形”が残っていた。
俺は町の資料室で当時の記録を洗い、ひとつの事故に辿り着いた。
2009年、火元不明の火災。
逃げ遅れた一人娘・榊原ひとみ(当時17)が行方不明のまま――
事件性は不明、焼死体も見つからなかった。
母親はショックで引っ越し、父親は数年後に病没。
だが、どこかで妙な証言が続いていた。
「夜中になると、あの焼け跡から、
女の子の“足音”が聞こえる」
夜。俺は焼け跡に足を運んだ。
月明かりの下、あの影はまるで“座り込む少女”のように見える。
しばらく耳を澄ませると――
カツ…カツ…カツ…
乾いた木靴のような足音が、まるで床下から響いてきた。
風はない。
虫も鳴いていない。
俺は床に手をつき、目を閉じて、静かに呼びかける。
「榊原ひとみ……君か」
「…………」
「君は、どこにいる」
その瞬間、目の前の影がわずかに動いた。
いや、“影の位置”が変わった。
まるで、こちらに顔を向けたように。
そして、かすかな声。
「――おかえりが言えなかったの……」
「私、玄関で待ってたのに」
そのとき、遠くで車のブレーキ音。
道路を挟んだ反対側から、初老の女性がこちらを見ていた。
「……まさか、本当に……あなたが……」
彼女は榊原ひとみの母だった。
探偵としてここを調べていることを伝えると、彼女は静かに語った。
「あの晩、私は……夜勤で家にいなかった。
ひとみは“おかえり”を言うために、私を待っていたの。
毎晩毎晩、ただ座って――
それが、最期になったのかもしれない」
母娘が最後に交わすはずだった言葉。
焼け跡に残った影は、“待ち続けた時間”の痕跡だった。
俺は静かに言った。
「……言ってやるといい。
今なら、聞こえる」
彼女はしゃがみこみ、焦げ跡の前でそっと呟いた。
「――ただいま。遅くなって、ごめんね」
その瞬間、風が吹き、
黒い“影の跡”が――灰のように、さらさらと崩れて消えた。
次回・第67話「黒塗りの遺書」では、
とある病院の遺品整理中に発見された、1通の“書き換えられた遺書”を巡る依頼。
消された言葉の奥に、“もう一つの死”が隠れている。




