第六十四話「閉ざされた絵の中で」
美しさは、ときに牢獄になる。
そこに閉じ込められたのは、
声なき者の“真実”だった――
東京郊外の小さな私設美術館――「秋波館」。
連絡を受けた俺が現場に着くと、すでに関係者は怯えた顔をしていた。
「展示室にある“ある絵”から、
夜になると声が聞こえるんです……。
女の声で、“ここから出して”って――」
問題の絵は、昭和初期に描かれた油彩。
赤い着物の女性が、どこか空虚な表情で立ち尽くしている。
背後には、鍵のかかった鉄扉。そして影の中に、誰かの手。
夜。
閉館後、俺ひとりがその展示室に残る。
周囲の照明をすべて落とし、絵の前に立った。
時計が0:00を指した瞬間――
展示室の空気が変わる。
ふっと温度が落ちたように感じた次の瞬間。
「……ここから、出して……」
確かに、女の声。
音源はない。耳元ではない。
“脳に直接響くような”音だった。
俺は一歩、絵に近づいた。
絵の表面に塗られた厚い油絵の具が、不自然に光っている。
そのとき、絵の女がほんのわずかに首を傾けたように見えた。
瞬きの間に、姿勢が変わっている。
展示当初から“人によってポーズが違って見える”と噂されていたらしい。
気のせいではなかった。
俺は録音機を取り出し、再生ボタンを押す。
「ここから、出して……」
「誰が閉じ込めた」
「…………」
「名前を、教えてくれ」
沈黙。
だが次の瞬間、絵の奥の扉に描かれた“鍵”の部分が、
ぽとりと音を立てて剥がれ落ちた。
絵具が剥がれたはずなのに、落ちた鍵は本物の金属のように、展示室の床に転がっていた。
俺は気づく。
この絵には、“本物”が混じっている。
それは過去の作者の執念か、
あるいは――**閉じ込められた女自身の“遺物”**か。
展示室の扉が自動的に閉まる。
鍵もかかっていないのに、開かない。
照明が明滅する中、再び声がする。
「――“彼”が閉じ込めたの」
「誰だ、“彼”とは」
「……この美術館を建てた人。
私は……モデルじゃない……妻だったの。」
俺は、館長の経歴を思い出す。
美術品コレクターでありながら、かつて殺人未遂の前科を噂された男。
妻は30年前、突如失踪――
そしてこの絵の完成年も、30年前。
声が消える。
扉が再び開く。
俺の足元に、もう一つの“落し物”――
金の指輪が転がっていた。
次回・第65話「額縁の外へ」では、
探偵が館長と対峙し、絵の“本当の完成”を見届けます。
果たして閉じ込めたのは、愛だったのか、罪だったのか。




