第六十二話「依頼人は笑わない」
都会の鏡面は、
映す必要のない影まで写し込む。
そして、見ないふりをしてきた感情は、
必ず“誰かの顔”になって現れる。
1
灰色のビル街。
雨上がりのアスファルトがまだ湿り、ネオンが歪んで映っている。
俺の事務所のドアを、小柄な男が叩いた。
スーツは高級だが、皺ひとつないのが却って不自然で――そして、笑顔がまるで貼りついていない。
「……失礼。あなたが“影の探偵”と呼ばれている方ですか」
淡々とした声。
名刺には外資系投資会社のロゴ、肩書は“リスク管理室・室長”。
名前は 「白洲明臣」。
2
白洲が差し出したタブレットには、一枚の監視カメラ映像が映っていた。
夜の無人オフィス。
照明センサーが反応し、オフィスが白い光を帯びた瞬間――
ガラス壁面にだけ“笑う男”の顔が映る。
椅子も、机も、人も、実像には何もないのに。
「1週間、毎夜 0:07 ちょうど。
オフィスに誰もいないのに、ガラスに“同じ男”が映る。
社員のメンタルが崩れ始め、退職者まで出た。
――原因を突き止め、止めてほしい。」
タブレットを閉じると、白洲は微かに俯いた。
笑っていない。緊張でも恐怖でもない。
“感情という色”が欠け落ちているようだった。
3
現場は港区にある40階建ての高層ビル。
27階のワンフロアを丸ごと占めるオフィスは、全面ガラス張りだ。
深夜、俺と白洲は照明を消し、監視カメラの死角に身を潜めた。
0:05。
都会の灯が足元で煌めく中、壁面ガラスに自分の影がぼんやり滲む。
0:07――
エントランス側のパネルに、**“もうひとつの顔”**が浮かんだ。
スーツ姿の若い男。
口角は引き攣るほど上がり、眼窩は虚ろに落ち込んでいる。
白洲が息を呑んだ。
その顔は――彼に、酷似していた。
4
ガラスに近寄ると、顔は揺らぎながら俺の背後を覗き込む。
光源も反射角も無視して、こちら側の空間を覗くように。
――ガリ…ガリ…
ガラス面の内側で、爪が擦れる音。
そこに白い結露が走り、文字が浮かんだ。
「ぼくは まだ ここにいる」
俺はポケットから黒インクのペンライトを取り出し、
ガラス越しに文字の下へ一行を書き加えた。
「だれだ おまえは」
ペン先の光が消えた瞬間、ガラスの中の男がひときわ大きく笑った――
が、次の瞬間、映像は歪み、パネルは元の暗い鏡面に戻った。
5
白洲は肩を落とし、低く呟く。
「三年前、部下が自殺した。
深夜残業が常態化した結果だ。
彼のデスクは――ちょうど、あそこだった。」
白洲が指差した席は、ガラスに顔が現れた真向かい。
残業中も笑顔を崩さなかった有能な若手――
そして、自宅ベランダから飛び降りた男。
「“笑い方が変だ”と、同僚が噂していた。
……彼は、オフィスに取り残された“笑顔”になってしまったのか?」
俺は白洲を見据えた。
確かに彼は、笑わない。
部下の死後、感情を閉ざしたのだろう。
「あなたが、向き合うしかない。」
俺はそう告げ、監視映像に残る時間パターンと光の屈折をノートに書き留めた。
“笑う男”を再現し、対話させる手はずを整えながら――
次に訪れる0:07を待つ。
次回・第63話「鏡像の微笑」で、
探偵と白洲は“笑う男”との対話を試みる。
果たして、笑顔の裏に潜む本当の声とは――。




