第六話「鏡に棲む」
“鏡”は、自分自身を映すはずのもの。
だが、そこに本当に映っているのが“自分”である保証は、どこにもない。
今回は、罪と記憶が創り出す“もう一人”の物語を描きました。
この仕事をしていると、時折、“目を逸らしてはいけないもの”に出くわす。
だが時には、“目を逸らさなければならないもの”もある。
その夜、女は震えながら俺に言った。
「鏡の中に、私がいるんです。……でも、私じゃない私が、睨んでくるんです」
錯覚か精神疾患か。
だが、部屋中の鏡に布をかけているその様子は、冗談には見えなかった。
依頼人は榊原紗季、28歳。
職業は編集者。ワンルームの部屋に一人暮らし。
数週間前から、朝起きると洗面台の鏡の内側から曇っていることがあるという。
「朝、そこに……指で“サキ、見てるよ”って、書かれてるんです」
最初は夢だと思った。
だが、鏡を変えても、場所を変えても、それは繰り返された。
そして一週間前から、“もう一人の自分”が鏡越しに動きを真似しなくなったという。
俺は調査のため、部屋に宿泊することにした。
午前2時、冷蔵庫の音しか聞こえない静けさ。
ベッド脇に置かれたスタンドライトが、鏡をうっすら照らす。
しばらくすると、鏡の表面がじんわりと曇った。
そして――現れた。
中の女は、確かに“少しだけ違う”顔をしていた。
表情が歪んでいた。
目だけが異様に大きく、そしてこちらを見据えていた。
……だが、俺の視線を感じると、すっと消えた。
翌朝、紗季は泣きながら告白した。
「私、大学時代に――**自分の親友を追い詰めたことがあるんです。
陰で噂を流して、孤立させて……
あの子、ノイローゼになって、退学して、いなくなったんです」」
その友人の名は、佐倉未央。
彼女は今も消息不明。
「その後、時々夢に出てくるんです。
私と全く同じ顔で、髪の長さだけ違う、私を睨んでくる未央が……
“あんたになりたかった”って……」
俺は紗季の部屋から鏡を一本、持ち帰った。
だが、事務所で何度覗き込んでも、何も起きなかった。
なのに夜、ふと眠りから目覚めると、
棚に立てかけた鏡の中で、自分が動かなかった。
……いや、正確には、“ほんの一瞬”だけ、反応が遅れた。
俺は報告書にこう記す。
「鏡像が変化する明確な証拠はなし。
依頼人の精神的負荷と、過去の行動に起因する幻視の可能性が高い」
「ただし、“もう一人の自分”という存在の兆しは、
必ずしも本人の意識下にあるとは限らない」
その後、紗季は鏡のない生活を選んだ。
スマホのフロントカメラもテープで塞ぎ、部屋に反射面は一切ない。
けれど、ある夜――
窓ガラスの外に、“笑う自分”がいたと連絡が来た。
部屋は6階。
外にベランダも足場も、何もなかった。
人は、自分の顔を自分で見られない。
鏡という“他人の目”を通して、ようやく自分を確認する。
だからこそ、そこに“違う自分”がいたとき――
人は、自分の中に眠る怪物を、初めて知るのかもしれない。