第五十三話「影喰い婆(かげくいばば)」
“鬼”は、いた。
だがそれは、牙を持った異形の存在ではなく、
罪を押しつけた人間そのものだった。
そして、逃げ延びた子供は――
それを、忘れさせないために戻ってきた。
村の外れ――
人が立ち入らなくなった廃屋の奥、
そこに“影喰い婆”と呼ばれる女がいた。
本名は不明。
かつて、村の薬師をしていたとも、
山の神と契約していたとも言われる人物だ。
十年前の事件の際、
唯一「鬼を見た」と口にした存在でもある。
俺が訪ねると、老婆は焚き火を前にしていた。
その目は白濁していたが、
まっすぐ俺の方を見ていた。
「……来たな、“影の男”よ。
お前は、この村の火を消しに来たか、灯しに来たか。」
俺は問うた。
「“鬼”とはなんだ? あの沢渡家に、何があった?」
老婆は笑った。
その声は乾いていて、土が崩れる音のようだった。
「鬼なんぞ、もともとおらん。
“鬼にするしかなかった”んじゃ――
村が、そう決めたんじゃよ。」
沢渡家の母、みきは村に嫁いできた人間だった。
外の血を入れることを嫌うこの村で、
彼女はずっと“よそ者”扱いだったという。
それでも、子を三人もうけ、
家族は静かに暮らしていた。
だが、ある年、疫病のようなものが村を襲った。
村は生贄を求め、
“よそ者の家”を、静かに囲い始めた――
「あの女は、自分で子を殺したのではない。
“殺されることを悟った”んじゃ。
だから――子を逃がした。
末の娘だけは、夜の山に放った。」
「だが、その子は“影”になって戻ってきた。
母親が死んだ日から、村に姿を見せぬが、
この村の“夜”だけを歩き回っとる。」
老婆は一枚の古い紙を俺に渡した。
それは、子供の絵。
そこには、母親の姿と、鬼の姿が描かれていた。
鬼は村人と同じ顔をしていた。
「“鬼”はな、喰らうんじゃよ――
自分の罪を、影にして。
見たくないもんを“妖怪”にしとるだけなんじゃ。」
俺は最後に尋ねた。
「なら、その娘は今どこにいる?」
老婆は、焚き火の火を見つめながら呟いた。
「“火をつけに来る”のを、待っとるんじゃろ。
村の罪を焼く火をな……。」
夜の帰り道。
林の中で、俺はふと立ち止まった。
背後に、気配。
振り返ると、
そこに、小さな影が立っていた。
目だけが、赤く灯っていた。
影喰い婆の語る真実は、
村の誰もが目を逸らしてきた“罪”だった。
十年前の事件は、“妖怪の仕業”ではない。
だが今、その影が再び姿を取り戻そうとしている。
次回――“鬼”が現れる夜。




