第四十二話「映るのは、わたしじゃない」
見慣れたはずの鏡の中に、
見たことのない自分の表情が映っていたら――
それはあなたの“奥”から出てきたものかもしれない。
「山小屋のトイレの鏡に……自分じゃない誰かの顔が映るんです。
最初は見間違いかと思ったんですが、何度見ても――違うんです。
あれは、私の顔じゃない。
でも、笑ってるんです。私を、見て。すごく、楽しそうに。」
依頼人は、登山好きの女性。
人里離れた山中にある小屋を、季節ごとに借りている。
問題の鏡は、備え付けの木製トイレにある古い曇った鏡。
電気もなく、外の光がわずかに差し込むだけの空間。
俺は実際にその小屋を訪れた。
日が沈む直前、トイレに入り、鏡を見た。
映っているのは俺の顔――のはずだった。
だが、目が笑っていない。
俺は眉をひそめていた。
だが、鏡の中の男は、口元をゆっくりと歪めて、笑っていた。
――確かに動きが“ずれている”。
鏡を取り外し、裏面を確認した。
仕掛けや盗撮機器などは存在せず。
だが、鏡の裏板に、鉛筆で書かれた小さな文字があった。
「ここはわたしのなか。わたしは、ここでしか笑えない。」
裏板の木は古く、紙ヤスリでこすっても跡は消えなかった。
まるで、“何度も書かれた形跡”が焼き付いているようだった。
近隣の山岳記録を調査した。
10年前、この小屋で一人の女性登山者が失踪している。
所持品や手帳はトイレに残されたが、本人の姿は発見されなかった。
地元の噂では、
「鏡に取り込まれたんじゃないか」
「笑っていた顔が、いつまでも残っていた」――などの話が残っている。
俺は報告書にこう記した。
「映像干渉型視覚残像現象、対象は鏡面のみ」
「実体的接触不可。視線・表情の“独立反応”あり」
「過去の失踪者との関連性濃厚。精神反映的媒体としての鏡面固定化」
「外部排除困難。対象空間の立入制限および視界遮断により干渉回避可能」
俺は鏡を元に戻し、その上から黒布を被せた。
その上に、依頼人と共に一枚の紙を貼る。
【ごめんなさい。でも、もう行きます。】
【あなたは、そこでずっと笑っていてください。】
それ以来、鏡の中の顔は現れなくなった。
だが、布をめくれば――また、誰かがそこに“待っている”かもしれない。
鏡とは、自分の姿を映すものではない。
時に、そこに“居たかった誰かの笑顔”を残すものでもあるのだ。
鏡にしか存在しない顔。
それは、世界と繋がる最後の窓。
閉ざされたまま、笑顔だけを残して、
ずっとそこにいる誰かがいる。




