第三十七話「そこに、いるんでしょう?」
深夜のドアの向こうから、知らない声が聞こえたら――
それは侵入者ではなく、ただ名を呼ぶ者の残響かもしれない。
「毎晩、決まった時刻に、部屋のドアの外から声がするんです。
“こんばんは”とか、“元気?”とか……誰かが、明らかに私に話しかけているんです。
でも、ドアを開けると、誰もいない。何週間も、それが続いてて……」
依頼人は、大学進学を機に地方から上京してきた女子学生。
築年数の古い木造アパートでひとり暮らしをしている。
部屋は狭く、廊下の端。玄関扉のすぐ外には、共同トイレと古い階段があるだけ。
問題の声が聞こえるのは、毎晩23時きっかり。
最初は挨拶程度だったが、日を追うごとに会話のような言葉が増えてきたという。
俺はアパートの構造と過去の入居履歴を調査した。
驚いたことに、依頼者の部屋――2号室には5年前から入居者の記録が存在しない。
にもかかわらず、家賃の振り込みが毎月、現金で管理人に届けられている。
つまり、書類上は“空室”のはずなのに、実際には使用されている。
しかも、“声”はその部屋を明確に“誰かがいる”と認識して話しかけている。
俺は調査のために室内に録音機を設置。
23時、ぴったりに声が響いた。
「ねえ、今夜は話せる?」
「ずっと待ってたんだよ」
「どうして……そんなに静かなの?」
声はやさしい女の声。
怒気も不快さもない。ただ、“知っている誰か”に話しかけるような親しみがあった。
だが――**依頼者は、その声の主に“まったく心当たりがない”**と言う。
俺は録音を管理人に聞かせた。
老人はしばらく無言で、それからぽつりと口を開いた。
「……それ、多分、前に住んでた子の母親の声だよ。
十年くらい前……ひとり暮らししてた子がいてね。
でも、事故で亡くなっちまった。帰省中にバイクに轢かれて……
その後、母親が何度かここに来て、部屋の前で、ずっと呼びかけてた」
老人の言う通り、その女性は亡くなった娘の部屋の前で何度も話しかけ、
誰も応えない扉に向かって、「また来るね」と呟いていたという。
俺は報告書にこう記した。
「対象の音声現象は周期性および時刻特定性あり。対人会話形式に類似」
「声の主は過去の居住者の近親者と推定され、感情的残留による非実体干渉の可能性」
「対象者の反応による応答変化なし。構造的危険なしも、心理的影響あり」
「強制的遮断ではなく、対象の“認知受容”による終息が最適と判断」
俺は依頼者にこう伝えた。
「その声は、あなただけを呼んでいるわけじゃない。
“誰かがそこにいる”ということだけを、確かめているんです」
そして、次に声がかかったとき――
返事はせずに、ただこう呟くように伝えた。
「ここにいる人は、あなたの知っている人じゃない。
でも、もう大丈夫。あなたは、忘れてもいいんだよ」
その夜から、声はぱったりと止んだ。
誰かに話しかける声は、
それが“返事を求めている”とは限らない。
ただ、そこに誰かが“まだいてくれる”ことを、
確かめ続けているだけなのかもしれない。
話しかけるという行為は、
“誰かがそこにいる”と信じている証だ。
その想いが薄れたとき、
声はようやく“届く必要”を失うのだろう。




