第二十八話「階段の定位置」
人は習慣に救われる生き物です。
今日も同じ時間に、同じ場所に――それが、生きていることの証明だった人もいます。
それが続けられなかったとき、残るのは**“いつもの場所に戻る”記憶だけ**かもしれません。
「夜になると、団地の階段に“誰か”が座ってるんです。
暗くて顔は見えません。でも、確かに人の形なんです」
依頼人は、団地の三階に暮らす男性。
件の階段は、一階と二階の踊り場部分。
ベンチのように広くなったその場所に、毎晩22時きっかりになると、黒い“影のようなもの”が現れる。
特に害はない。だが、その“気配”を通り抜けて登ると、胸が重くなるような不快感が残るという。
俺は依頼人の案内で団地を訪れた。
昭和築の低層型団地。塗装のはがれたコンクリート階段は、湿り気を含んだようにひんやりしていた。
夜22時。
通報のあった時間――
俺たちが階段下から踊り場を見上げた瞬間、
“そこに誰かがいる”という確信が背骨に走った。
人の形をしているが、輪郭が定まらず、
煙のように揺れて見える。
ライトを向けると消える。
だが、ライトを消すと――またそこに戻っている。
管理事務所の記録を調べると、十数年前にこの団地で孤独死した老人がいたことがわかった。
二階の角部屋。
発見されたのは死後3週間が過ぎた頃で、最後に姿を見たのは、階段に座って休んでいた時だったという。
しかも、その老人は、
「毎晩22時に、買い物帰りにそこで一休みするのが日課だった」と近所で語られていた。
俺は夜の見回りの際、踊り場に録音機を設置し、翌朝に確認した。
すると、23時ちょうどの音声に――
咳払いと、ビニール袋を置くような音が記録されていた。
そのあと、かすれた声でこう呟く。
「……よし……今日も、ここまで来れた……」
「……誰も、おらんな……まあ、ええか」
俺は報告書にこう記した。
「特定時間に定位置へ出現する視覚的・音響的影響を確認」
「姿は不定形ながら、人影に類似。記録音声は孤独な高齢男性のものと一致」
「生前の習慣行動を霊的記憶が模倣・反復しているものと推定」
「存在は受動的、接触害意なし。見守りまたは慰霊により自然消失の可能性あり」
俺は、階段の手すり横に小さな木の椅子を設置した。
そこに「おつかれさまです、今日もここまで来られましたね」と書いた短冊型の札を結びつけた。
以降、“影”は見えなくなったという。
代わりに――毎晩22時になると、風鈴が一度だけ小さく鳴るらしい。
人は、どこかに“居場所”を持っていたい。
それが誰に見られていなくても、
誰かが来ると思っていなくても。
その階段は、彼にとっての“今日を終える場所”だったのだろう。
見えない存在が、そこに“居る”のではなく、
“居たかった”だけだとしたら――
どうか、その願いが静かに終えられるように。
それを“見る”のが俺の仕事だ。




