第二十五話「余白の住人」
集合写真の“知らない誰か”――それは昔から語られる定番の怪談です。
けれどその“誰か”も、ただそこに混ざりたかっただけかもしれない。
見られること、覚えてもらうこと。それが唯一のつながりならば。
「この写真に、心当たりのない女の子が写ってるんです」
依頼者は大学生の女性。
ゼミ合宿で訪れた山奥のロッジで撮影した集合写真――
それに**“誰も見覚えのない人物”が一人混ざっていた**。
場所は屋外、参加者は全員で15人。
その写真の右端、木陰の中に、白いワンピースを着た少女が微笑んでいた。
誰も彼女に声をかけた記憶はない。
名前も、同行した記録も、まったく残っていない。
奇妙だったのは、すべての写真に“同じ少女”が写っていたことだった。
ピースしている集合写真、
花火を囲むスナップ、
就寝前に撮った何気ない部屋の一枚――
角度も距離も異なるにもかかわらず、
少女は必ず“左奥”の位置にいて、カメラをまっすぐ見つめていた。
俺は現地のロッジを訪れた。
管理人の老人は言った。
「ああ、昔もあったよ。
女の子の姿が写って、気味悪がって写真を焼いた人がいた」
「でも不思議なもんでね……焼いた写真の灰の中に、真っ黒な瞳だけが残ってたんだとさ」
調査の過程で、古い町報に目を通すと――
30年前、このロッジの裏手の沢で、10歳の少女が溺れて亡くなった記事が見つかった。
名は「田島 麗奈」
当時、親の仕事の都合で一時的にこの山村に預けられていたという。
ただ、不思議なことに――
その記事に添えられた写真と、依頼人の撮った“問題の少女”の姿は一致しなかった。
服装も、顔も、髪型も違う。
俺は報告書にこう記した。
「写り込みの人物は対象者の記憶および記録と一致せず」
「同一構図にて複数回確認された点から、偶発性の除外」
「既存記録の溺死事例と結びつく線も不明瞭。類似ケースにおける“映像付着型存在”との一致を検討」
「存在は“誰かに見られること”を目的とし、写真媒体を選択して顕在化していると推定」
その後、依頼者たちは写真を処分しようとした。
だが、燃やそうとするとライターの火が何度も消えたという。
仕方なく、俺が用意した特殊な“記録用紙”に少女の姿を手描きで再構成し、
その紙に「あなたを見ました。忘れません」と記して供養した。
以降、少女は一切どの写真にも現れなくなった。
だが、依頼者が帰宅してアルバムを整理していたとき――
幼少期の、何気ない一枚に気づいたという。
自分が5歳の頃、親と山登りをしたときの写真。
その遠景の登山道の隅に、“白い服の少女”が立っていた。
視線は、カメラではなく――
その子自身を見ていた。
写真は、思い出を残すもの。
けれど、ときに**“誰かの存在証明”の手段にもなる。**
その存在が、本当にそこにいたのかは分からない。
だが、写ってしまったのなら、
それは、誰かが“見てほしかった証”でもある。
カメラは真実を写すと言います。
でも、真実とは、“そこにいた証拠”ではなく、
そこに“いたい”という願いかもしれません。
シャッターを押すその瞬間、
“余白”に宿るものに、気づけるかどうか。




