第二十話「おとなにはナイショ」
“子どもにしか見えないもの”というテーマは、
幻想でもホラーでも、しばしば登場します。
大人が忘れた何か――それは、同時に忘れられた“危うさ”でもあるのです。
「隣の家にね、“あかいふくのひと”がすんでるよ」
そう言ったのは、依頼者の娘――5歳の少女だった。
依頼人は若い夫婦で、築浅の戸建てに越してきたばかり。
隣家は空き家で、ここ数年誰も住んでいない。
けれど、娘が言うには「毎日、同じ時間に挨拶してくれる」というのだ。
赤い服を着た、髪の長い女の人。
手を振る。にこにこしてる。声は小さいけど、「またあそぼうね」って言うらしい。
最初は“想像上の友達”だと思われていた。
しかし、近隣の子どもたち数名が、同じ“赤い服の人”を描いていた。
しかも、どの絵にも共通していたのは――
顔が“のっぺらぼう”
左手が“異様に長い”
足元に“影がない”
そして、子どもたちは全員こう言った。
「おとなにはナイショって言われた」と。
俺は現地へ赴き、隣家を調査した。
窓は施錠されており、荒れもなく、侵入の痕跡もない。
ただ、二階のベランダの手すりだけが、微かに“子どもの手形”で曇っていた。
しかも、その位置は明らかに、手を振る動作に適していた。
ある夜、依頼人から通報が入った。
娘が眠ったあと、玄関に“誰かが立っていた”という。
録画されたインターホン映像には、
何も映っていなかった。
だが、音声だけが残っていた。
>「こんばんは。〇〇ちゃん、いますか」
>「まだ、いっしょに、あそんでない、から」
>「――もっと、たのしくなるよ」
それは、機械のノイズを帯びた、女性のような声だった。
俺は報告書にこう記した。
「対象は子供にのみ知覚される『限定感応型存在』と推定」
「共通認識あり。複数の児童が類似する視覚・発話情報を報告」
「音声記録存在。ただし映像記録には非干渉。外部電磁影響の可能性あり」
「存在は『対話』よりも『誘導』に重点を置く傾向」
「以降の接触を防ぐため、児童への露出制限と対象空間の結界的処理を推奨」
娘には、ある“遊び”があった。
白い紙を用意し、**「あかいふくのひとへ」**と書いて、
クレヨンで「今日は○○したよ」と報告する。
その紙を窓の隅に置いておくと、翌朝、返事が書き込まれている。
最後に書かれていたのは――
>「きょうは たのしかったね」
>「でも おとなが いると つまんない」
>「また ふたりきりに なったら あそぼうね」
翌日、俺はその紙をすべて焼却し、隣家の出入口に封印処置を施した。
以降、娘は“あかいふくのひと”のことを何も語らなくなった。
だが、庭に置いてあったブランコが、風もないのにゆっくりと揺れていた。
ちょうど、5歳児の身長と重さに見合う程度に。
子どもの世界には、大人の目に見えない“扉”がある。
それは想像力ではなく、純粋な感受性が開く境界線だ。
そこから入ってくるものが、
遊び友だちとは限らない。
その存在は、決して悪意だけでは動いていないのかもしれません。
ただ、こちらのルールを知らないだけ。
あちら側の遊びは、終わり方も、帰り道も、
教えてくれない。




