第十九話「鏡像(きょうぞう)の中へ」
人は無意識に、鏡に“確認”を求めています。
そこにあるべきものが少しでもズレると、
それはもはや“自分”ではなくなる。
今回の話は、“自分に最も近い異物”の恐怖を描いています。
「朝、洗面台の鏡を見ると、“私”が先に動くんです」
依頼者は20代後半の女性、都内のマンション住まい。
症状は毎朝同じ時間、鏡の中の“自分”が自分に先んじて動くというもの。
「瞬きや頬の動きが、一瞬だけ早いんです。
まるで向こうが“こっちを真似してる”みたいで……」
最初は錯覚だと思っていたが、
最近は夢の中にも“鏡の自分”が出てくるようになったという。
彼女の部屋を調査した。
異常は見られない。鏡も普通の銀引き加工の家庭用。
ただし――洗面台の鏡はやや古く、縁の一部に小さな“ひび”があった。
そのひびは裏面から広がるように入っており、
肉眼では見えないが、赤外線カメラで撮ると、そこに**“もうひとつの目”のような影**が浮かんでいた。
俺は夜中、彼女の許可を得て、鏡の前で待機した。
午前3時12分、彼女が洗面所のドアを開けた瞬間、
――鏡の中の“彼女”が、先に笑った。
それは“微笑み”ではなかった。
歯を見せず、頬を吊り上げるような、不自然な表情。
本人は笑ってなどいなかった。
「先週あたりから、姿勢も違うんです。
私、歯磨きするときは右手なんですけど……鏡の中の私は、左手で動かしてて」
まるで、“こちらを真似しようとしてミスっている”ような不一致。
それは、模倣が“限界に来ている”ことを意味していた。
調査の末、判明したのは以下の点だ。
鏡の中の“動きの先行”は、特定時間にのみ発生
その時間は“午前3時12分から13分の間”のみ
この時間帯、マンションの他室でも複数の“鏡の先行動作”が報告されていた
同一建物内に、同様の現象が多発していた。
共通していたのは築40年以上、かつ、旧地下鉄工事で一部構造にズレが生じていたこと。
専門家によれば、「古い鏡の銀引き層には、
極まれに**外部磁場の干渉で“残像”が蓄積されることがある」**という。
だが、それは“残像”ではなかった。
ある夜、彼女が撮影した動画に、明確な違和感が映っていた。
カメラの向こうで、彼女が首をかしげる――
その直前、鏡の中の“彼女”が、喉元に指を当てる動作をしていたのだ。
“先に動いた”のではない。
鏡の中の存在が、別の意思で動いていたのだ。
俺は報告書にこう記した。
「鏡面に映る自己像の“非同期性”を確認」
「動作差異、表情不一致、逆利き動作など、模倣精度の破綻を複数観測」
「通常の鏡面反射ではなく、構造歪みによる“鏡像領域の浸蝕”と推定」
「意識的存在が鏡内部で形成・独立化している恐れあり」
「鏡の破壊および遮蔽にて現象収束を確認」
彼女は今、洗面台の鏡を外し、完全に黒布で覆っている。
だが、ある夜、ベッド脇の姿見に、“笑った自分”が一瞬映ったという。
鏡は映す道具ではない。
“こちらに返す”ための存在だ。
だが、返ってくるものが、自分である保証は、どこにもない。
鏡に映るのは自分自身。
――そう思い込んでいるだけです。
本当に確かめたことがありますか?
あなたのその動き、表情、まばたき――
本当に“同時”に動いていましたか?




