第百二十七話「沼に沈む顔」
水に映るのは、姿だけとは限らない。
心の底の、沈めたはずの顔が、
こちらを見上げてくる。
依頼者は、山間の村に住む高校教師。
村はずれの沼で、生徒たちが“顔だけが浮いている”と騒ぎ始めた。
「水面じゃなく、水の中なんです。
沈んでるのに、目が合うんです。
……笑ってるんです、ずっと」
その沼は「乙女ヶ淵」と呼ばれている。
地元では古くから、“夜に近づいてはならない場所”とされていた。
過去に女性の溺死が数件あったが、
いずれも「事故」として処理されている。
だが、沼に近づいた子どもたちの証言は揃っていた。
「女の人の顔がある」
「水の下でこっちを見てる」
「笑ってたけど、目が笑ってなかった」
俺は現地を訪れた。
森に囲まれた小さな沼。
表面は静まりかえっていて、風ひとつない。
だが、水際に立った瞬間――“視線”を感じた。
下を覗くと、確かにそこにあった。
白い女の顔が、澄んだ水の向こう側から、
まるで“水の内側”に貼りついているように、俺を見ていた。
村の古老によると、
かつてこの沼には「身投げした花嫁の話」があったという。
「親が決めた相手との縁談が嫌でな、
婚礼の日の朝に、この沼に身を投げたんだ。
それからというもの、
“水に顔を映した女が、引き込まれる”って話が広まってな……」
この“顔”は、ただの霊でも妖怪でもない。
水面に映った者の“生の感情”に反応する存在。
不安、憎しみ、恐怖――
そういった感情が強い者だけに、
“笑いかけて”くるのだ。
それは、**「あんたも、こっちにおいで」**という誘いだった。
俺は、沼のほとりにある古い祠を開けた。
中から出てきたのは、花嫁衣裳の布切れと、
湿気で膨らんだ小さな鏡。
そこに映る自分が、ほんの少しだけ――
口角を上げていた。
祠に塩と紙垂を張り、
花嫁の布を清めの火で焼いた。
その日の夜、沼を訪れると、
もう顔は消えていた。
ただ、水面にだけ――
“風のない波紋”が、いつまでも広がっていた。
次回・第128話「踊る家」では、
引っ越したばかりの一軒家。
夜になると、床が軋み、家具が勝手に回転する。
まるで、**家そのものが“踊っている”**ようだった――。




