第十一話「かえりみちの音」
旅館という場所は、一時の“帰る場所”であり、
同時に“帰れなかった者”の記憶を閉じ込める空間でもあります。
今回はその“取り残された言葉”に焦点を当てました。
その旅館には、もう誰も泊まれない。
山間の温泉街にぽつんと残された木造三階建ての旅館。
二十年前に廃業したまま放置され、今では地元でも“触れてはいけない場所”となっていた。
だが最近、その廃旅館の3階から人の声が聞こえるという通報が相次いだ。
「“ただいま”って、誰かが言ってるんです」
「でも、行っても誰もいない。音だけが聞こえるんです……」
地元警察は不審者ではなく、“風の音”として処理。
だが旅館の所有者が俺に調査を依頼してきた。
外観は、今にも崩れそうなほど老朽化していた。
屋根には穴、ガラスは割れ、草が玄関まで伸びている。
だが奇妙なことに――中は、ほこりが異様に少なかった。
人がいないはずの空間に、歩く“流れ”のようなものが残っている。
まるで、空間そのものが“来訪”を待っているようだった。
俺は調査のため、旅館の一室に泊まることにした。
午後11時を回ると、静かだった廊下に軋む音が響いた。
キィ……キィ……コツ、コツ、コツ。
階段を誰かが下りてくる。
廊下に誰の姿もない。
だが、確かに足音が通り過ぎていく。
そして、俺の泊まる部屋の前でピタリと止まった。
次の瞬間――
“ただいま”という女の声が、耳元でささやかれた。
翌日、俺は町の古老から話を聞いた。
「あの旅館はな、昔“花嫁失踪事件”があったんじゃ」
新婚旅行で訪れた夫婦。
女は夜中、ひとりで外に出たまま、二度と戻らなかった。
夫は取り乱し、旅館の屋上から飛び降りた。
それ以来、旅館は客足が遠のき、やがて閉業。
女の遺体は見つからず、夫の死も“事故”として処理された。
再び旅館に戻った俺は、3階の奥の部屋に入った。
そこには、埃を被ったスーツケースがあった。
中には、白無垢が丁寧に畳まれていた。
その上に、小さなメモ用紙が残されていた。
「私はここにいます。
でも、誰も迎えに来てくれません」
そして裏面には、震えた筆跡でこうあった。
「もう一度、“おかえり”が言いたいだけなのに」
俺は報告書にこう記した。
「音声と物音の現象は確認済。人為的な工作の痕跡なし」
「室内から発見された遺留品に、失踪事件との関係がある可能性高」
「声と足音は、“帰り道を失った者の記憶”としての残響と推定」
「この旅館は、いまだ“帰宅を待つ者”がいる場所だ」
数日後、旅館は正式に取り壊しが決まった。
その前夜、俺はもう一度だけあの部屋に立ち寄った。
ふと、背後から“おかえり”と誰かが言った。
振り返ると――
何もいない廊下に、小さな草履の跡だけが濡れていた。
「ただいま」「おかえり」という言葉は、
誰かにとっては日常でも、
誰かにとっては一生届かないままの約束になる。
言葉が残る場所には、人もまた残ってしまう。
その足音は、もう誰のものでもないのに――。




