第百六話「喪服のランナー」
振り返ってほしいと願う者と、
振り返る勇気のない者。
その間に、時間だけが走り続けている。
依頼者は、早朝ランニングを日課にしている中年男性。
週に数回、都内の自然公園を走っていた彼は、
ここ一ヶ月、同じ時間帯に**“喪服姿の女”**を見かけるようになった。
「最初はジョギング帰りの人かと思ったんですよ。
でも……毎回、同じ格好、同じ速度、同じルートなんです。
おかしいでしょ? まるでビデオみたいに、同じなんです」
しかも不思議なのは、
その女に追いついた者は、必ず怪我をするということ。
「振り返られた瞬間、なにかに殴られたような衝撃が来て……」
「顔を見たら……目が、なかった。真っ白だったんだ……」
俺は早朝5時、依頼者とともに現場の公園に入った。
薄明かりの中、舗道にランナーがまばらに走っている。
やがて、見えた。
黒い喪服の女――長袖のブラウス、ひざ下のスカート、黒髪は後ろで一つに結ばれ、無言で走っている。
不自然なほど一定のリズム、同じ靴音、同じ呼吸音。
依頼者がつぶやいた。
「あれです……でも、俺はもう、近づけない」
俺は彼女の後を走った。
距離は常に5メートル。縮まらない。
早足にしても、スピードを上げても、
絶対に追いつかない。
やがて彼女は、公園の奥の広場へ入っていく。
そこは――数年前まで火葬場の敷地だった場所だった。
俺は思い切って声をかけた。
「……誰を待ってる?」
その瞬間、彼女は立ち止まり、振り返った。
その顔には――“目がなかった”。
ただの白い肌が、目の位置を覆っていた。
だが、そこから“強烈な視線”を感じた。
まるで、全身の記憶を“読まれている”ような感覚。
「まっている……まだ、きていない……
わたしを、見送ってくれるひとが……」
声は風に溶け、彼女はそのまま霧のように消えた。
俺は翌日、図書館で火葬場の記録を確認した。
十年前、事故死した女性がいた。
名前は相沢麻衣。
火葬の朝、遺族の一人が寝坊して立ち会えなかったと記されていた。
以来、その家族は事故に遭ったり体調を崩したりと、
次々と“不運に見舞われた”という記録が残っていた。
「……誰か一人でも、見送ってくれれば――
彼女は、走り続けなくてよかったのかもしれない」
今も早朝、公園のあの道には、
時おり、黒い影が走るという。
そして、誰かが後悔を背負ったまま立ち止まるとき、
その影は、ふっと遠ざかっていく。
次回・第107話「呼ばれる非常階段」では、
深夜、非常階段から自分の名前を呼ぶ“自分自身の声”。
登ってしまった者は――戻ってこなかった。




