第百五話「手招くアパート」
帰る場所とは、
誰かの祈りが形を成したものなのかもしれない。
依頼者は、解体業者の男。
都内にある築60年の木造アパート「白百合荘」の取り壊し準備中、
妙な現象が頻発しているという。
「夜になると、203号室だけ灯りが点くんです。
ブレーカーは落としてあるのに。
しかも近づいた職人の一人が……“自分がそこで暮らしてた”って言い出して……
でも、その人はアパートに入ったこともないはずで……」
俺は夜、アパート前で張り込んだ。
時間は23時過ぎ。人気のない路地に、
2階の一角――203号室だけがぽつりと明るくなった。
古びたレースのカーテンの向こう、
人影が、ゆっくり手を振っている。
玄関は打ち付けられ、中に入れるはずもない。
だが近づくと、なぜか**“懐かしい匂い”がした。**
乾いた畳、煮しめのような匂い、
そして、どこかで聞いた童謡のメロディ。
突然、頭の奥に何かが差し込んだ。
――ちゃぶ台の前に座る老婆。
――夏の扇風機。
――小さな手を握る“俺の手”。
だが、その光景に俺自身の記憶はない。
深夜0時を回った頃、灯りはふっと消えた。
朝になり、依頼者と共に203号室の鍵を確認したが、
存在しない部屋だった。
203号室は、設計上、存在していない。
101〜202号室までしか存在せず、203号室の場所には――
壁しかなかったのだ。
念のため、取り壊し前の古い住人名簿を確認した。
すると、昭和58年に**「203号室・天野澄子」**という名前があった。
備考欄には、こう書かれていた。
「死亡後、部屋消失。間取り改修」
俺は市役所で調べた。
天野澄子――
息子と二人暮らしだったが、ある日突然、失踪。
後日、部屋の中から**“人骨の一部と日記”**が見つかっている。
その日記の最後の一文には、こう書かれていた。
「せめて、あの子が帰ってくる場所を、ここに残しておきたい」
俺はアパートの前で、手を合わせた。
ふと見ると、203号室の“あったはずの場所”にだけ、
雨が降った跡がなく、乾いたままだった。
誰かが、いまだにそこを部屋として使っているのかもしれない。
次回・第106話「喪服のランナー」では、
早朝の公園を走る“黒い喪服姿の女”。
決して追いつけず、
振り返った顔には――
“目がなかった”。




