第一話「雨の音にまぎれて」
妖怪が本当にいるのか?
それとも、それを見てしまう人間の心が恐ろしいのか――。
『妖ノ影』は、古き怪異の影を借りて、人間の内面に潜む闇を照らし出すシリーズです。
第1話のモチーフは「ぬらりひょん」。
本来は“ただの客人のふりをして居座る”ような存在ですが、
現代に現れたその影は、もっと静かで残酷な姿をしていました。
午後十一時、街の灯りは雨に滲んでいた。
ネオンサインの裏側に人の心が隠れているなら、それはきっと、ずいぶんと濡れている。
探偵業なんてものをやってると、時折、足元から“ぬらり”と何かが這い上がってくる。
目を逸らせば消えるが、見つめ返せば、手遅れってやつだ。
その夜、事務所に現れたのは、痩せた老婦人だった。黒いレインコートの裾が雨に重くなっていた。
「娘が……“ぬらりひょん”に呼ばれて、夜な夜な外に出るんです」
ふつうなら精神科を勧める案件だ。
だがこの仕事を十年やってりゃ、笑えない話もある。
世の中には、“見えてるほうが正しい”ことも、たまにはある。
依頼の対象は、老婦人の娘――菊池理沙、二十七歳。
最近、部屋で誰かと会話をし、夜になると無言で出ていくらしい。
彼女いわく、「ぬらりひょんが来たから、話をしに行く」と。
ぬらりひょんね。
名前だけなら、もう五件目だ。
だが、どのぬらりも、結局最後は人の手で汚れていた。
理沙のアパートは郊外の団地の端、人気のない場所にあった。
夜の十一時半、部屋の灯りが消え、彼女が静かに出ていく。
傘は持たない。雨は降り続けていた。まるで歓迎するようにな。
俺は尾行を開始した。
靴の裏が水を吸い、シャツの背中に雨が染みる。
女はまっすぐに裏山の竹林へ向かう。何の躊躇もない歩き方だった。
竹林の中は、昼でも薄暗い。
夜ともなれば、ほとんど闇だ。
そんな場所に、理沙は迷いなく進む。やがて、木々の中で立ち止まる。
「……うん。わかった。次は、あの人……?」
声を発していた。誰かと話している――ように見えた。
が、そこには誰もいなかった。ただ、雨と風と、竹の軋みだけ。
俺が一歩踏み出したその瞬間、背後で気配がした。
「……城戸さん」
聞いたことのない声だが、なぜか名前を呼ばれた気がした。
振り返ると、そこにいた。
――ぬらりひょん。
光もないのに、姿ははっきりしていた。
禿げ頭に、旅装束。ぬめるような笑み。足元は、なかった。
「君には見えるのか。ずいぶん前から、俺のことを追ってきたな」
「……あんたは何だ。幽霊か、幻覚か、それとも――」
「“投影”さ。彼女が俺を見ているから、君にも映るだけ。
本当は、俺なんて、いないのに」
その声は、雨の音より静かだった。
「人は、自分で選んでいるようで、ほとんど選んでいない。
彼女は、自分が“命令された”と思いたかった。だから俺を作った。
都合のいい化け物ってやつだ」
次の瞬間、霧のようにぬらりひょんは消えた。
残ったのは、冷たい雨と、竹の影――そして、叫び声。
理沙は祠の前にいた。
そしてその足元には、一人の男の遺体が転がっていた。
死因は、頸椎骨折。殴打か投げ落とされたか。
男の顔には見覚えがあった。彼女の元恋人――ストーカー気味だったという。
「……ぬらりひょんが言ったの。危ないって。だから私……」
その呟きは震えていた。罪悪感か、錯乱か、それとも別の何かか。
だが後日、防犯カメラにはすべて映っていた。
男を呼び出し、竹林に誘導し、手にしていた石を――
彼女は、ただの加害者だった。
ぬらりひょんなんて、どこにもいなかった。
いや、“いた”のは、彼女の心の底にだけ。
(数日後)
事務所に戻って報告書を書く。
俺の仕事は、事件を終わらせることで、誰かを救うことじゃない。
それでも、彼女が殺したのが「ぬらりひょん」ではなく「人間」だったと証明するのは、
少しばかり、皮肉だった。
煙草に火をつける。雨の夜はまだ続いていた。
人は、闇を見ると、それを“妖怪”のせいにする。
だがその影を生み出してるのは、いつだって――
――人間自身だ。
“妖怪”の名を口にすれば、罪がぼやける。
“幻”に頼れば、責任が溶ける。
でも、法も命も、幻想では動かない。
城戸蓮司という探偵は、そこに淡々と線を引く存在です。
彼にとって妖怪とは、倒すべき怪物ではなく、人の罪が生み出した影絵にすぎない。
それでも、その影がときに“確かにそこにいた”と思えるのは、
人間の闇がそれだけ深く、静かだからでしょう。