表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

くまのなか

クマの着ぐるみの中は、まるで深く柔らかな胎内のようだった。


足を滑り込ませた瞬間、彼はまず「沈む」感覚に襲われた。足の裏が触れたのは、綿でも布でもない、とろみを帯びたゼラチンのような層だった。それは彼の足を、歓迎するようにゆっくりと呑み込み、ぴったりと形に沿って絡みついた。


布の裏側ではなく、生きている何かの内臓のようだった。


クマの脚部はすでに彼の足の輪郭を写し取り、そのまま皮膚に染み込むように変質を始めた。神経の末端がじわじわと熱を帯び、皮膚の内側に入り込んできた「何か」と結びつく――それは違和感ではなかった。むしろ、心の奥にあった孤独がそっと撫でられたような、安心に満ちた快感だった。


「そう、ずっとこうなりたかったのかもしれない」


彼の手がクマの腕に通されると、そこにはふかふかの中綿などなかった。代わりに広がっていたのは、濃厚で微細な繊維の雲。まるで生きた毛布のようなそれらは、指の隙間に忍び込み、爪の裏からも、手首からも、皮膚の中に染み込んでいった。


指先は丸く膨らみ、肉球のような感触に変わっていく。骨の感触が消え、柔らかな“あのクマ”の腕になっていくのがわかる。動かしてみると、まるで自分の意思ではなく、着ぐるみの中にいる「誰か」が動かしているような不思議な錯覚があった。


首まで着ぐるみを引き上げたとき、視界が歪んだ。


目の周囲を包む内側の層が、まるでスライムのように脈打ち、瞼の裏側から神経に染み込み、「見る」ことの感覚そのものを侵食していく。視界はぼやけ、色彩はぬるりと滲んだ。


そして、頭部が被せられると――


世界は静寂に沈んだ。


そこにはもう、呼吸の音も、自分の心臓の音さえもなかった。代わりにあったのは、遠く深く、くぐもった「低い唸り声」のようなもの。それが心臓のように周期的に響いていた。もしかしたら、それは着ぐるみそのものの「心音」だったのかもしれない。


どこまでが自分で、どこからが着ぐるみなのか。

皮膚も筋肉も骨も、甘く、気持ちよく溶けていく。

でもそれは「失う」感覚ではなかった。

むしろ――


「帰ってきた」ような安らぎだった。



やがて、すべてが終わったとき。


彼の意識はふっと浮かび、眠るように落ちた。


気づいたとき、世界はまた明るく、温かく、風の音がしていた。


だがその身体は、もはや大人のものではなかった。

手足は小さく、声は高く、背丈も縮んでいた。

――「クマ」と「少年」の中間にある何かとして、彼は再構成されていた。


そしてクマの着ぐるみは、ただの抜け殻のように、彼の傍に転がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ