くまのなか
クマの着ぐるみの中は、まるで深く柔らかな胎内のようだった。
足を滑り込ませた瞬間、彼はまず「沈む」感覚に襲われた。足の裏が触れたのは、綿でも布でもない、とろみを帯びたゼラチンのような層だった。それは彼の足を、歓迎するようにゆっくりと呑み込み、ぴったりと形に沿って絡みついた。
布の裏側ではなく、生きている何かの内臓のようだった。
クマの脚部はすでに彼の足の輪郭を写し取り、そのまま皮膚に染み込むように変質を始めた。神経の末端がじわじわと熱を帯び、皮膚の内側に入り込んできた「何か」と結びつく――それは違和感ではなかった。むしろ、心の奥にあった孤独がそっと撫でられたような、安心に満ちた快感だった。
「そう、ずっとこうなりたかったのかもしれない」
彼の手がクマの腕に通されると、そこにはふかふかの中綿などなかった。代わりに広がっていたのは、濃厚で微細な繊維の雲。まるで生きた毛布のようなそれらは、指の隙間に忍び込み、爪の裏からも、手首からも、皮膚の中に染み込んでいった。
指先は丸く膨らみ、肉球のような感触に変わっていく。骨の感触が消え、柔らかな“あのクマ”の腕になっていくのがわかる。動かしてみると、まるで自分の意思ではなく、着ぐるみの中にいる「誰か」が動かしているような不思議な錯覚があった。
首まで着ぐるみを引き上げたとき、視界が歪んだ。
目の周囲を包む内側の層が、まるでスライムのように脈打ち、瞼の裏側から神経に染み込み、「見る」ことの感覚そのものを侵食していく。視界はぼやけ、色彩はぬるりと滲んだ。
そして、頭部が被せられると――
世界は静寂に沈んだ。
そこにはもう、呼吸の音も、自分の心臓の音さえもなかった。代わりにあったのは、遠く深く、くぐもった「低い唸り声」のようなもの。それが心臓のように周期的に響いていた。もしかしたら、それは着ぐるみそのものの「心音」だったのかもしれない。
どこまでが自分で、どこからが着ぐるみなのか。
皮膚も筋肉も骨も、甘く、気持ちよく溶けていく。
でもそれは「失う」感覚ではなかった。
むしろ――
「帰ってきた」ような安らぎだった。
⸻
やがて、すべてが終わったとき。
彼の意識はふっと浮かび、眠るように落ちた。
気づいたとき、世界はまた明るく、温かく、風の音がしていた。
だがその身体は、もはや大人のものではなかった。
手足は小さく、声は高く、背丈も縮んでいた。
――「クマ」と「少年」の中間にある何かとして、彼は再構成されていた。
そしてクマの着ぐるみは、ただの抜け殻のように、彼の傍に転がっていた。