第六話
自室に戻ることができたのは、帰宅してから一時間も経ってからだった。
それからずっと床に寝転がって、壁に掛けられた時計を見つめ続けている。着替え、宿題、明日の準備。やるべきことは沢山あるけれど、指先一つも動かせない。母の雷が落ちた日はいつもこうだ。
重力に身を任せ続けて、窓の外が暗くなったころ。部屋に響いたノックの音が私の意識を呼び戻した。腕に力を込めて起きあがる。ぬるくなったフローリングに体育座りをした。
ドアが開いて、母が部屋に入ってくる。私のベッドに腰かけて、小さくため息をつくのが聞こえた。背骨が軋む。
首元に刃が添えられているような居心地の悪さ。母に視線を向けようにも、首の筋肉がうまく動かない。諦めて、床の木目を見つめることにした。
「ごめんね。言い過ぎた。」
「ううん。大丈夫。」
「大丈夫じゃないでしょ。無理にそんなこと言わなくていいから。」
「……うん。」
どう答えればよいのだろう。どうすれば母を傷つけずに、丸く収まるのだろう。正解を引き当てたことは一度もない。
「彩夏も小さいときはよく喋る明るい子だったから。お母さんのせいでこうなっちゃったんだなって。ごめんね、ひどい親で。」
そうじゃない。お母さんは悪くない。私が上手くできないから。お母さんの言う通りになれないから。私が勝手に躓いただけ。
だから、歪められたわけじゃなくて。
「……あ。」
辻褄が合ってしまった。
「お母さんが言いたいのはさ。後回しにするんじゃなくて、ちゃんとコツコツやりなよってこと。ギリギリになって困るのは彩夏だから。」
「うん。」
「それと、自分がどうしたいのかちゃんと言ってください。お母さん、どうしたらいいのか分からないから。」
「うん。」
「制服しわになっちゃうから、ハンガーにかけてね。」
「わかった。」
母はもう一度ため息をつくと、ベッドから立ち上がり、部屋から出て行った。
ドアが閉まる音、遠ざかる足音。リビングのドアが開閉する音を確認して、腕の力を抜いた。折りたたまれていた脚を開放して、もう一度床に寝そべる。
あの夢で、私たちは本当に体を交換したのだ。そうでなければ、こんな出来損ないになるはずがない。本物の彩夏ならもっとうまくやれた。
もっと、この家は笑顔にあふれていたはずだ。学校でだって人気者になれただろう。萌華に一方的な愚痴を聞かせても、許されるくらいの地位を得られたはずだ。
理想の娘になれないのも当たり前だ。私はそもそもあの人の娘ではない、偽物なのだから。
胸に穴が開いて、冷たい風が心臓を撫でている。幻覚だとわかっていても、この痛みからは逃げられない。
痛くて、痛くて、叫びたい衝動をぶつけるように、クローゼットの中身をベッドにぶちまけた。引き出しに入っていた冬服も、コートも、全部。
その下に潜り込んで、のしかかる重さに安堵して。それでも隙間風は止まない。
鼻の奥がじわりと熱くなって、視界がぼやけた。涙がこぼれるたびに、胸の痛みと罪悪感が増していく。喉が引きつって、無様な声がもれて、額からは汗が噴き出した。
私のせいで、家族の幸せが壊れてしまった。
これからどんな顔をして生きていけばいいのだろう。他人の人生を奪って、家族を壊して、その自覚もなくのうのうと生きていたなんて。
償う方法など、見当もつかないけれど。
彩夏に体を返そう。
私はあの薄暗い場所に戻ろう。
今更かもしれないが、それがみんなを幸せにする方法だ。
そう決意を固めて目を閉じた。なのに、いつまでたっても眠気はやってこない。
眠って、あの夢を見て、彩夏に体を返すべきだ。分かっているのに、いつまでたっても覚悟は決まらないまま。スマホの時刻表示を見るたび、自分の浅ましさを呪わずにはいられなかった。
部屋の壁を睨みつけたり、時計の針の動きを観察したり、服の縫い目を数えたり。そんなことを繰り返して何時間たっただろう。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいることに気が付いて、それと同時に愉快な気持ちに襲われた。服にまみれたベッドに飛び乗った。横隔膜からこみあげる笑いで、顔の皮が歪んでいく。枕に顔を埋めて大声で笑おうと思ったけれど、喉がヒクヒクと鳴っただけだった。吊り上がった唇がよだれを抱えきれなくなって、枕に染みができていく。
この体は私のものだ。本物だろうが偽物だろうが、文句をつけられる人間は一人もいない。罪の意識など必要ないのだ。悩む必要などどこにもないのに。
あの人たちの娘を演じる必要はない。
あの教室に溶け込む必要もない。
この世界に気をつかう必要などなかったのだ。
だって私は橋本彩夏ではない。
あの薄暗いプールサイドに座っていた、寂しい女なのだから。
こんなに簡単なことなのに、なぜ気付かなかったのだろう。寂しかった。ずっと寂しかった。この世界では上手く生きられない。その理由が分かったのだから、良かったではないか。
私をつなぎ止めていたものが、音を立てて千切れていく。
可哀想な彩夏。
私なんかと体を交換してしまったばかりに。
私が、あなたの代わりに人生を謳歌してあげる。
ろくでなしになろう。
この人生を、取り返しのつかないところまで壊してしまおう。
彩夏が体を取り返そうなんて思わないように。私の人生を邪魔されないように。
通学鞄を撫でて、金槌の存在を確かめる。
「いってきます。」
輝く太陽に祝福されて、私の新たな人生が始まった。