第五話
彩夏の額には小さな傷跡がある。
目を凝らさなければ見えない。彩夏も自覚していないだろうそれは、私がつけてしまったものだ。
あの日、私はインフルエンザに罹って寝込んでいた。彩夏が幼稚園から貰ってきたものをうつされたのだ。夫は仕事を休むことができず、家には彩夏と、熱で朦朧とした私だけ。先にインフルエンザから回復した彩夏は元気いっぱいに家の中を走り回っていて。私は布団の中でその足音を聞いていた。それで精一杯だった。
なんて。どれだけ言い訳を並べても、罪悪感が軽くなるわけじゃない。
あの日、彩夏は足を踏み外して階段から落ちたのだ。大きな音と、火がついたような泣き声が聞こえて、私は高熱も関節の痛みも忘れて駆け出した。けれども、そのときにはもう彩夏は頭から血を流していたのである。私は彩夏を守れなかったのだ。
救急車が来るまで生きた心地がしなかった。タオルを押し当てても全然血が止まらなくて、彩夏の鳴き声が痛々しくて。このまま彩夏が死んでしまうのではないかと嫌な想像が止まらない。遠くから聞こえるサイレンの音に「早く来て!」と叫んで、柄にもなく念仏を唱えながら救急車を待っていた。
結果として、彩夏の命は助かった。しかし額に大きな傷跡が残ってしまい、私は周りから随分責められた。
「母親失格だ。」
「それでも親か。」
「女の子の顔に傷を残すなんて。」
普段関わりがない人たちまで口をそろえて私を責めた。そういう人たちの瞳には、蟻を潰す子どものようなほの暗い喜びが宿っていて、私は彼らの顔を見ながら静かに涙を流し続けた。
幸いなことに、手術をして傷跡は随分薄くなった。彩夏はこのことを覚えていないらしいし、私を責める人も、次第に次の話題へ吸い寄せられていった。日常が戻ってくる、と思っていた。
しかし、一度傷ついたものは元に戻らない。
彩夏に何かあるたびに、あの時頭を打ったからではないかと思うようになった。酷い風邪をひいたとき。テストの点が悪かった時。運動会の徒競走で転んだとき。何か悪い影響が残ったのではないかと思うと気が休まらない。
家の中で大きな音がするたびに、彩夏のことを思って不安になる。何かあったときに守れるように。すぐに病院に連れていけるように。私はそれまで以上に、彩夏を目で追うようになった。
彩夏の目を見ることが怖くなった。どうしても額の傷が目に留まってしまうから。夫に似た目元が可愛くて大好きだったのに。
初めのうちは慰めてくれた夫も、次第に家から遠ざかっていった。「父親失格だ。」と罵ってやりたいが、もはやそんな気力もない。心配を、やるせなさを、罪悪感を彩夏にぶつけて、そのたびに後悔する日々。私のせいで、幸せな家族は壊れてしまった。
私は今日もソファで独り、あの日の私を責めている。