第四話
帰宅したとき、玄関の前で深呼吸するようになったのはいつからだろう。ドアノブにかける手が強張るようになったのは。
目を逸らしていたことに、少しずつ輪郭が与えられていく。
「ただいま。」
返事はない。しかし、廊下の先にあるリビングには人の気配がある。
自室に直行するか、リビングに入るか。少し考えて、音を立てないようにリビングのドアを開けた。
母がソファに座っている。その後頭部を見て、私は失敗を悟った。
「ああ、おかえり。ごめんね、気付けなかったわ。」
「ううん、ただいま。」
リュックから弁当箱と水筒を取り出して、シンクで洗う。早く片づけを終わらせて、部屋に戻らなければならない。
そうしないと。
手が滑る。水筒がシンクに落ちて鈍い音を立てた。家じゅうに響くような大きな音が、私から冷静さを奪っていく。
「ちょっと、もっと丁寧にしてよ。」
母が、ソファから立ち上がった気配がした。
「うん。ごめん。」
急いで水筒を拾い上げて、洗いなおす。今度は落とさないように、丁寧に。
「ねえ。」
母が、キッチンを挟んで向こう側に立っている。
ため息交じりの声の冷たさが首筋に絡みつく。全身の筋肉が錆びついてしまったように固まった。心臓が鷲掴みされたように痛んで、首筋から血の気が引いていく。
そうだ。まず、蛇口を閉めなければ。
「彩夏さ。今日の宿題のこともそうだけど、ギリギリまで先延ばしにするのやめない? 色々やること溜めこんでさ。その癖よくないよ。」
目を合わせる。人の話を聞くときは、相手の目を見ること。
「何その目。お話するたびに睨んでくるのやめない? 気分悪くなるんだけど。」
やっぱり、目つきが悪いとろくなことがない。
下ろすタイミングを失った右手が、蛇口にしなだれかかっている。皿を洗う体制のまま顔だけを上げたせいで、鎖骨まわりの筋肉が引きつっている。
「彩夏、幼稚園の時のほうがちゃんとしてたよ。スモック畳むのも、荷物の片づけも、やるべき時にちゃんとできてたよね。ちゃんとできるのに、なんで今はやらないの。」
私が知りたいよ。そんなの。