第一話
水で満たされたプールに浮かんでいる。肌にまとわりつく重さと、不安定な浮力。生ぬるさが皮膚に入り込む。
灰色の水槽、灰色のプールサイド、灰色の壁、灰色の天井。
ここは屋内プール施設らしい。
水槽の広さは高校の教室くらいだろうか。足はつかないし、部屋が薄暗いせいか水底が見えない。水が澄んでいるのか濁っているのか、それもわからない。しばらく溺れまいともがいて、それはいらぬ心配だと気付いた。私の体は、まるで救命胴衣を着けているかのような浮力を持っていたからだ。
私が少しの安心を得た直後、女の声がした。
「ねえ、どういうつもり?」
声をかけられてはじめて、私はその人に気がついた。プールサイドに、手足のない裸の人間が座っている。その体は生き物にしては硬質で、血が通っていないようだった。白い素焼きの壺が、所々黒カビに侵食されているような見た目だったけれど、私はそれを人間だと思った。先程の声からして女だろう。黒い髪を床に垂らし、身動きすることなくこちらを見ている。
「気色悪い。あんた性格悪いね。わざわざここに来て、見せつけるみたいに楽しそうにしちゃってさ。ここから動けない私の前で。ふざけないでくれる?」
彼女のドスのきいた声は私を怯えさせるのに十分だった。顔は髪に隠れて見えないが、母の怒った顔よりも怖いに違いない。恐怖から逃れるために、私は彼女の許しを得なければならない。
「あ、あの。ごめんなさい。」
「ねえ、なんで動いていたの? 馬鹿にしてんの? ドブみたいな性格してるじゃん。」
「あ、足があるから。」
「へえ?」
「そう、手と足があるから動いちゃうの。楽しんでたわけじゃなくて、動きたくなくても動いちゃうの。」
私はわざと見せつけたわけではない、ということを分かってもらいたかったのだが、口に出してから「これは悪い答えだったな」と思った。かといって、いい答えはすぐに思い浮かばない。脳みその外側だけが動いている。
「へえ、わざとじゃないんだ。」
「うん。そうだよ。」
「じゃあさ、その体貸してよ。」
「え……なんで。」
彼女が笑っている。にやにや、にたにた、楽しそうに。
「わざとじゃないなんて、私には分からないし。あんたの体を使えば、動きたくなくても動いちゃうってことが分かるかもしれないでしょ? ね? そしたら許してあげる。」
なぜ急に貸し借りの話になったのか分からない。分からないけれど、彼女が怒りをおさめてくれるかもしれない、というのは魅力的だった。刺すような視線、低い声、水の温度、心臓を握られる感覚。この重圧から逃れられるなら。
首の後ろで警鐘が鳴っている。
「私も一回くらい泳いでみたいからさ。ね、すぐに返すよ。その間、私の体を貸してあげるからさ。そしたら、あんたも私の気持ちがわかるだろ。」
「本当に、すぐに返してくれる?」
「うん。」
返してなんかくれない。渡しちゃいけない。
でも、返してくれるって言ってるよ。それに一度も泳いだことがないなんて可哀想じゃない。
「ほら、さっさとしてよ。」
怒りを向けられるというのは、何より恐ろしいことだ。だから、許してくれるなら。
「いいよ。すぐに返してね。」
そうして瞬きを一つすると、体が言うことを聞かなくなった。まるで型に嵌められてしまったように。私はプールサイドに座っていて、水面を見下ろしていた。プールには喜びの声をあげる私の体があって、それを見てようやく、本当に体を交換したのだと理解した。
私の体を得た彼女は楽しそうに、手足を大きく動かして、笑う。蝉の鳴き声のような不安が、今になって染み込んできた。
水しぶきが少しずつ遠ざかっていく。
「ねえ、すぐ返してくれるんだよね。」
「すぐだよ、すぐ! まだ全然楽しめてないんだから、もうちょっと待ってよ。」
引き留めようにも、追いかけようにも、私はここから動けない。
「返してよ、ちょっと。行かないで!」
「あはははは! 大丈夫。すぐだよ、すぐ!」
私の体が水に沈んで、それから、もう浮かんでは来なかった。