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一人で生きた

【詐欺師・13】

「瑠璃」

 呼びかけられた本人は、一瞥だろうとよこそうとはしない。代わりのように新葉がキョロキョロと忙しない。

「るーりさん」

 返事はない。ただ、少しだけ煩わしそうに瞼に力が籠った。

「お前の本当の家族は心配とかしないの?」

 瑠璃は答えない。しかしそれは、無視しているのではなく、口にするべき言葉を選んでいるように感じられた。

「……だから、覚えてないんですよ」

 言葉を深く押し込むように、瑠璃は重く嘆息する。

「星に訊いても、これは答えてくれない。誰かに口止めされているみたいに」

 瑠璃の唇が食いしばるように波を打った。目蓋という薄情な深淵の中に、彼女は今も星を見ているのだろう。そうやって全てを見通し、全てを知る。

 それは恐ろしく、彼女を超越的な存在だと思わせるには十分すぎる事実だった。

 しかし彼女は言う。自分のことだけはわからない、と。

 誰かに防がれているかのように判然としない。何者かに掌握された世界で生きてゆく。

 だからきっとこんな矮小な想像もそう遠からじ、なに故かって同等以上に狭いから。小さな町は、恐ろしいほど平面に見えた。何処かからやってきて、去ってゆく風もなく。停滞した沼地の水をかき混ぜる流れは、見えない壁に千切られた。

 嗚呼全てを見通し、全てを知ろうと、彼女の生きる世界は酷く狭い。 

「……気づけば私は」

 ふいの音に首が曲がりそうになる。

 瑠璃が自ら口を開いた。

「瑠璃と呼ばれていて──岸波の家庭の長女になっていた。

 2007年の5月12日生まれって、書類も記録もあるのにそれまでの記憶が一切ない」

 言葉がのしかかるハンドルは随分と重かった。

 背後から忍び寄る怖気に、指先の熱が引いていく。

「こんな怪物みたいな力がある私を、誰が御したのかはわかりません。だけれども、なんとなく、分かるんです」

 瑠璃は一度、言葉を切った。言うべきことは決まっていて、しかしそれを口に出すことが憚られるように。

 刃物の幻覚。

 傷になるから触れたくなくって、しかし揮えば雑多な物だって切り裂ける。

 何度も考えて、答えが出なくって。でも考え過ぎるくらいに練ったものだから、口にするのは簡単で。

 その音は綺麗に、しかし軽く鳴った。

「私は新葉君の居場所を奪った」

 誰かが息を呑んだ。

 アバラの中身が冷たく焦げてゆく。

「でもこんなこと、誰かに相談できますか?」

 静かで青い声は、しかし止まった湖面に打ち付ける水滴のように固く鳴った。

「この三か月は、酷く長かった」

 たった三ヶ月なのにね。

 そう、付け加えて唇を閉じる。

 

 ハンドルを握りながら考えるのは、やはり瑠璃のことだった。

 彼女の言葉の何処かに生えた棘が、胸に刺さったまま、違和感を残し続けている。規則正しく鳴るメーターに急かされて、この棘の正体は何物なのだろう、と無い脳味噌をかき混ぜる。

 すると案外、あっさりと辿り着く。考えてみればあまりにも簡単な話であった。

【でもこんなこと、誰かに相談できますか?】

 居場所を奪った者も。居場所を奪われた者も。

 誰かに喋りたいことがあって、相談したいことがあって、答えが見つからなくって。誰も信用できないけれども、でも一人で生きるのは嫌で、嫌で。

 ルームミラーをちらと見る。

 人形のように静かに、佇む瑠璃。

 定規で引いたように真っ直ぐと、口元を閉じた新葉。

 二人の距離が少しだけ近く見えたのは、きっと錯覚なのだろう。






【詐欺師・14】

 海に関する思い出はもう一つあった。

『堅固であったはずの石は 沙羅と砕かれ

 白き果ての景色に至る。

 生命の源たる青と 果てたる白が

 完璧に。

 一分の隙も無く 隣接する。

 融合と離別を繰り返しながら、

 ふと、思う。

 終わりの景色 始まりの景色は

 ここに 在るのではないかと。』


 水平線を眺め、そう宣ったのは同級生の彼女である。

 確かタイトルは『絶なる景』だった。意味わからん。

 同い年の女性と付き合うのは初めてだったので、これがスタンダートなのかと当時は思っていたが、今振り返ればどうやら違ったらしい。

 常に思考を張り巡らせ、鋭い網を張り詰める彼女に、当時の俺は不思議な魅力を感じていた。

 そう。頭の中で悶々とするばかりならば、彼女は大人しく、偶に可愛げのある素晴らしい女性だったのだ。

 しかし実行力があったのが、珠に傷で、致命傷だった。

 ある日言われた。ボクと一緒に死なないか。

 涙そうそうと手を握られて、我が握力立ち上がらねば、俺はきっと今頃詐欺師なんてやってない。両手で握りしめると彼女は星影のような笑顔を振り撒いた。嗚呼、心中しましょう。

 手を引かれ水へ。手を引いて、水中へ。

 そうやって縺れるように、絡み合うように、縋るように。夥しい水勢の内で踊り狂う。

 

 して、今俺がこうして息を吸っては吐いてしているのは不可解である。

 俺は生き残ったのだ。残されたのだ。冷たい無限の雨の中、突き飛ばされたこの胸は、今でも彼女を想う度に痛みと後悔に潰れる。残飯。残犯。残煩。どれなら似合うだろう。

 一緒に死のうと愛の言葉を囁いて、首を縦に振った。しかし無駄なことにもまんまと生き残って、嗚呼どうやら、文豪は俺らしい。

 冗談ではない。

 これではまるでお笑いだ──






【詐欺師・15】

 湿った風が肌を滑っては、遠くへと抜けていく。きっと潮風なのだろう。

 瑠璃は車から降りることができなかった。あと一歩、たった一息で地を踏める、その一瞬前で、息が詰まったように動きが止まる。

 閉じた瞳は何も見ない。

 ただ、悔いるように唇が結ばれているのを真正面から見せられて

 それでもなお我が軟派発動しなければ俺は、詐欺師などしていない。

 跪き、彼女の手を取る。宝石の温度をした冷たい腕は、しかし細く柔らかい。

「俺が君の瞳になる」

 瑠璃は何も答えなかった。

 代わりに微かに灯った指先の震えから、勝手に肯定の意を汲み取る。

 削れた石や砕けた貝殻が、やがて行きつく白い終わりに、

 彼女は初めて素足で触れた。







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