詐欺師・網島修理の生業
【詐欺師・9】
「今日はもう眠ります」
瑠璃を高級そうな椅子に下ろして、部屋を出た。
抱き締められていた頭の中が、しかし所在なくクラクラ揺れる。何処から整理していいのかもわからない。
瑠璃の肌は石のように冷たかった。
途方に暮れて見上げた視線をがっくりと失墜させてみれば、覗き込むような視線と繋がった。
岸波真司から聞いていた。そういえば、もう一人いるのだ。
岸波新葉。岸波家の長男。小学生のガキ。
「どうしました? 弟君」
「おれわかるよ。アンタ屑だろ」
最近の子供すっごいこと言う。
「……見る目があるな。姉ちゃんと違って」
「人のコンプレックスを弄るなよ。屑が」
「は? あ、ああ違うそういう意味で言ったんじゃ、いや……すみませんでした」
新葉は随分幼く見えた。しかし、低い視線は見下すように細い。
「アンタ見たろ、あの部屋。おかしいんだよ」
「趣味は人それぞれだからなぁ」
「誰も聞いてないんだから素直に言えよ。どうせ思ってるだけで瑠璃にはバレるんだから」
「そっかぁ……」
そんな気はしていたが、正面から言われると思った以上に言葉に詰まった。
思考が読める人間が自分の対面にいたことは、思い返してみると酷く苦痛に思われた。俺は彼女を騙せないし、彼女には俺の薄汚い中身が見えてしまう。どちらにも得は無い。
とっても逃げたい。
頭の中を空っぽにすれば思考は読まれないのだろうか。
ばなな。
「──頼むよ」
アホの面を世間に晒していると新葉が言った。
背負った影は薄くとも、しかし幼き少年の背には重すぎるように見えた。
「この家、おかしいんだろ」
「お前何歳?」
求めた言葉とは違うものが出てきたものだから、新葉は唇を尖らせた。しかし抗っても仕方ないと思ったのか素直に、九歳であると答えた。
──ああ、ガキだ。年齢も、精神も。
詐欺師に本当のことなど、言うものではない。
悪しき者は鼻が良い。
肉の柔らかいところを嗅ぎ分ける、砂泥よりも細かい嗅覚がある。
そんな風に、何か期待に目を輝かせてしまっては付け込まれる。
希望が見えれば望むものがわかる。望むものがわかれば適した餌がわかる。詐欺師は上手い釣り人に似ている。そして悪しき者は身体を身軽にも霧に変える。目から鼻から口から、毛穴から。探るように獲物を見つめる。
泥船がどちらかなど、考えるだけ無駄だった。
しかしきっと、藁をも掴もうと溺れる者に、下賤な詐欺師は濡手を伸ばす。
「辛かったよなぁ」
それは騙す為に吐いた言葉。カモにネギを括りつけようと垂らした涎。
けれども零れた言葉は血よりもぬるく。人の温度を重ねてゆく。
俺は詐欺師。しがない詐欺師。
けれどもどうにも甘ったれで中途半端な詐欺師。
こんな自分が嫌になることは幾度となくあって、けれどもその度、頭を撫でつけられて砂糖は中身にまで染み込んだ。
見知らぬ男。見知らぬクズ。顔しか取り柄が無いクソ野郎に、それでも縋らねばならないと覚悟したこの少年は、果たして。
今までどんな心地で生きてきたのだろう。
嗚呼愚か。慣れ合いをせずにいられない。自分のせいで人が死んで、自分の生で不幸が生まれて、それでも寒さに耐えられない。
何処まで行っても中途半端。何時まで経っても足が生えない。
しかしそれが、行動を起こさない理由にならないことも、深く重く、知っていた。
【詐欺師・10】
新葉はあるゆることを話した。
瑠璃と血が繋がっていないこと、瑠璃が来たのは三か月前であること、そしてその頃から両親の様子がおかしくなったこと。
そのことを、自分以外が全員忘れていること。
泣きそうな顔で、怖かったと零す。
嗚呼褒めれば、ほめたたえただけ、次から次へと根が惚れる。葉も惚れる。面白い様に──
きっと褒められることすら、久しぶりなのだろう。こんな子どもの三か月は、きっと漫然と生きる大人の何千倍も価値があって、天秤の皿も地に足付ける。
訊きたい情報と同時に、別に聞きたくもない日常の世間話も聞いてやった。そういうのは大事だ。詐欺師として。
宿題がどうの、給食がどうの、最近読んだあの本が、あのテレビが。
そんな他愛のない話を。当然の会話を。
話したいことがたくさんあって、伝えたいことがたくさんあって、でもそれを誰に話していいかわからない。
こんなガキが。
詐欺師に容易に誑かされるほど愚かなガキが。
背は低い。肉も無い。声変わりだって、まだしていないこんなガキが。小さな身体に収まり切らないくらいの容量を声で吐く。熱暴走のように──
ふと、頭の中で煮えたのは何だったのだろう。
【同情しますよ】
言った温度を噛み潰す。お前が真に同情してやるべきなのは、世界の底辺で口を開ける詐欺師なんかじゃなくて──
「聞きたいんだけどさ」
「何さ」
素直に鳴った反射の音に首が折れる。子どもの素直で透明な声を鼓膜に受けて、三半規管はとてもまともじゃいられない。
床と見つめ合って垂れるのは、獲物を前にした垂涎か、それとも目玉の水漏れか。
「瑠璃が家に来る前、父ちゃんと母ちゃんどんな人だった?」
「そんなの決まってるだろ」
逡巡も無い。決まっているだって、
ああ、わかってる。
だって風変わりした今と変わり無くクソ野郎だったら、お前はそんな憔悴しない。
瑠璃を疎ましく思うことだってないだろう。
「世界で一番の親だったよ」
世界で一番好きだったから、途方もなく。替えなど効かない。効く訳もない。
忘れられないこと、ずっと頭にこびりついて剥がれないこと、絶望に近しいこと、刻まれた傷が癒えないこと。それらは最愛の証左だった。
滾るのは目玉の裏側だった。煮えるのは腹の底だった。
『世界で一番の親だったよ』
だった、って。
諦めるにはまだ早いはずだ。
事実が、しかし立ち上がる気力を失って、死体のように目の前に横たわっていようとも、部外者の俺には関係ない。徹頭徹尾どうでもいい。
だから、そんな無気力など知ったことではないのだ。
諦めることなど、叶って堪るものか。
詐欺師は人を騙す生き物で、自分を騙すことは基本のゼロ番目。あまりにも原初の欲望に酷似していた。
姉さんに求められて、演じた最高の男。
ああ俺は、演じている瞬間だけは本物でいられるのだ。
詐欺師のきほん、きほんのほ。本物を追い求めろ。
──本物の理想を。
立ち上がり、伸びをする。喉は酷く乾いていた。
しかし足は動く。何処かへ進もうとする気力を焼べれば、十分に、真っ直ぐ進めるとアキレス腱の痺れが語る。
未来の展望は何も描けぬまま、頭の中は白地図よりも真ッ新に吹き飛んでいた。だからそこに絵を描こう。幸せな絵を。
宗教画とも相違なく崇高な最高の理想を。
この世の人間、全員が幸せな妄想を。
どうせ何処へも終着しない、この頭の養分で育てて生かせ。
「なあ」
なに?
少し、明るい声で返されて嗚呼もう、俺は。背中がくすぐったいような、どうしても守ってやりたいような、そんな傲慢な想いに浸されて。
「姉ちゃんも連れて、どっか行こうぜ」
言って指した人差し指が、何も描けぬまま──沈んだ。




