遺書代筆屋・天伊
【遺書代筆・17】
「三人家族?」
遠くの物を見るように、雨傘制は目を細める。
霧の向こうの更に先。妙に大きな影が見える。果たしてそれは、岩か山か。
そしてそれが怪物だとわかった瞬間、反動のように瞼は大きく開かれた。写真に触れていたはずの彼女の細指が、逃げるように遠ざかる。
熱された鉄塊のように、触れてはならないもの。
たかが一瞬、触れただけで傷になるような鋭利な物体。
「いや、いやいやいや。だって四人家族じゃないですか。ほら、写真。四人映ってますよ」
「後から一人貼り付けたらこうなるわ」
「いやでもこれ、合成には」
そう、合成には見えない。それが問題なのだ。
あまりにも当たり前のように、そこにいる。
岸波瑠璃はそこにいる。
「天伊さん」
抑えた口元から漏れた、くぐもった声は、圧力を差し引いてなお、精神的な何かによって震えていた。
見えぬ物がそこにある。見えてはならないものがそこにある。星の無い夜に、背後の空間がいやに激しく冷える感覚。瞼を閉じてなお感じる視線が誰のものなのか、しかし考えずにはいられないあの感覚。全ての音に妙に敏感になって、上げた両腕が浮いたまま降りてこない、あの感覚──
その曖昧な線を束ねて輪にして、首に掛けた。縄は動脈の音を吸って膨れてゆく。
悪寒は最早衝撃だった。黒い風が吹き荒れる。
「天伊さん。この写真、お寺で燃やしましょう。駄目です。こんな物持ってたら」
今までになく、雨傘制の語気が強くなる。
うっすらと額に浮かぶ汗が、だんだん膨れて、玉のように肌を伝う。しかしそんなものを意に介することすら煩わしいかのようで、彼女の瞳は動揺しつつも真っ直ぐに、その座標を保っていた。
きっと身を案じているのだろう。自分だけじゃない、私のことも。
こんな理解不能の事象に首を突っ込んでも意味が無い。いや、もう半歩以上は踏み込んでしまっているかもしれないけれども、だからといって投げやりになって進むことなどできない。好奇心は怪物をも殺す。
そう、最悪の場合など、考える必要もないくらいが一番良い。都合がいい。最悪のケースを見続けてきたこの哀れな占い師は、私を救おうとしている。
けれどもそれは──
「できない」
「はぁ⁉」
勢いよく、雨傘制の両手がテーブルに叩きつけられる。
がしゃん、と鳴った激しい音は、彼女の高ぶった神経をも崩したようだった。はっと瞬きして、汗をハンカチで拭う。
「これが岸波瑠璃さんのことを知る楔ならば、私が逃げるわけにはいかない」
「何言ってるんですか。無効ですよこんな依頼。お祓い屋ってわけでもないでしょう?」
「そうね」
未だ幽霊と邂逅したことはないし、祟りで眠れない夜を過ごしたことも無い。だから私にそういった予備知識は一切ない。何か不都合に襲われても大人しく首を差し出すくらいしかできないだろう。
それでも踏んでみたい、盤石とは程遠い土がある。選びたい道がある。
「だからこれは……興味本位よ」
私は真実を書く。そして、その真実から推測される光景を描く。
岸波瑠璃、及び岸波家が秘める真実が、一体どんな景色を描くのか、見てみたい。
「わたしは知りませんからね」
言い聞かせるように、最期の忠告だと言わんばかりに顔を寄せた。
代金をテーブルに、またも叩きつけ立ち上がる。
「仕事の時間だから帰ります。止めても帰りますからね。知りませんよ」
「じゃあね」
雨傘制の顔は耳まで赤かった。頭に血が昇って、言いたいことすら言えていない。
席を立つ。そして一歩、二歩。
進んで、聞こえるか聞こえないか、境界線の音量で唇は細く、ゆらめいた。
きっとどちらでも良いのだろう。
だって──目の前のこんな黒い壁にはどんな言葉も届きはしない。
ただ、言葉として呪文として、この空間に想いを刻む些細な儀式を行うことで、自分の中で感情を消費しておきたい。行き止まりの感情を放棄して、別の道に視線を傾ける。
ベルが激しく鳴る音と入れ替わるように、雨傘制は消えた。
追加で注文したコーヒーのカップに口を付ける。真っ黒な水面には何も映らない。
コーヒーの良いところは、自分がどれだけ酷い顔をしていても、真っ黒に塗りつぶしてくれるところにある。
鈍器スイーツが舌の上に残した微かな残滓を塗りつぶし、私は雨傘制の言葉を反芻する。
そうして嗚呼と理解した。
少し俯いて、振り返ることもせずに、彼女が口にしたあの言葉。
【ちょっと仲良くなったと思ってたわたしが、馬鹿みたいじゃないですか】
ええ、それは勘違いじゃない。けれども今、勘違いになった。
そして貴女は馬鹿じゃない。誰よりも愚かしいのは、私。
カップを静かに卓に置く。可能な限り音をたてないようにしたけれども、それも無意味だったかのように、かち、と微かな音が鳴る。
時計の刻む音よりも大きく、頭の中で響いて、消えてくれない。
嗚呼何故だろうと考えれば、数瞬前まで賑やかだったからだ。
騒がしい人影がいなくなって、随分と。店内は広く見えた。
どうしてただ店に入るだけであんなに緊張していたのかわからない。
何か、慣れないことでもあっただろうかと振り返れば、明るい茶髪と妙に活発な声が視界の端で揺れる。
笑えてくる。
愚かしい物を嘲笑し、届かない者に失笑し、
楽しかった思い出は純粋に頬を歪ませる。
ああ、そういえば、雨傘制に言い忘れたな。
「ありがとうって……」
この声は
何処へも届かず足元へ落ちる。
誰へも続かない想いが在った。
資料をかき集める。
鞄に仕舞って、さっさと会計を済ませる。
再び崩れ落ちそうな、大いに水分を湛えた雲を睨みつけて
私は走った。




