魂の在処/写真の中心
【遺書代筆・15】
「入らないんですか?」
「入り方がわからない」
「普通の喫茶店ですけど」
「入り方がわからない」
「んー……」
雨傘制の顔を見られない。ただきっと碌でもない表情をしていることはわかった。笑いたければ笑えばいい。他人の冷や汗を見て笑う悪癖を持っていますと世に公言したいのならば、ええどうぞ笑えばいいんじゃないですか。
「天伊さん陰なんですか」
「なんでそんなこと言うの?」
扉を開けると同時に、ああ明らかに、別の空間であると肌で分かる。
甘い香り。豆の香ばしさ。軽やかな店員の挨拶。きっと、店と客。その両方がこの空気感の構築に貢献しているのだろう。ただ視線を横へと傾けるだけで、湿った外の空気とはまるで違った綺麗な風が吹く。心を羽毛のように包んで、そのまま柔らかに横にしてくれる。
そんなきらびやかな雰囲気に
容易く乗ることができる程、私は日の下で生きていない。
こんなにも綺麗な絵に私がいても、まるで墨絵の描き損じである。
細かい泡みたいにふかふかのクッションが、深く体を沈める。ああ尻の座りが悪い。このまま地中に隠れたい。
こんな足回りの悪い場所で何事かに集中できるほど私は器用ではない。膝の上から手が離れない。慣れない。慣れないよ。
帰っていいかな。
「早いですって」
「何も言っていないのだけれど」
「顔に書いてありますよ」
なにぃおしぼりを持て。
などと中年のようなことをするほど私はいろいろ捨てていない。一応女だ。
「疲れたら甘味ですよ」
言って嬉しそうにメニューをめくる雨傘制の目は、しかし真剣の如く鋭い。きらきらしているのに怖い。とりあえずお冷を啜ろう。水は全てを解決する。海も雨も命の源である。全てはその地点へと集光してゆくのだ。
「ほら天伊さんも」
「あ、はい」
などと下らぬ愚考で頭蓋の中身を満たしているとこちらに矛先が向いた。
おかしいな、普通の会話のはずなのだけれども。何故矛だと思ったのだろう。
「どれにします?」
「一番安いのでお願いします」
「うんー……」
「私を誘った貴女がわるい」
「はいはい、これとかおすすめですから。いかがですか?」
「……じゃあそれで」
ほどなくして店員が注文の品を持ってやってくる。盛ってやってくる。
メニューの写真が詐欺であることを祈ったのは私の人生でいまだかつてなかった。
鈍器と見た目に差異は無い。仮にこれが体積に相応しい質量を抱え込んでいたならば、そのまま人を殺める凶器足り得るだろう。証拠隠滅も楽だ。食べればいい。
などとやまだかつてないほど愚かしい思考で現実から逃げる。問題があるとすれば頭の中だけ逃げても意味など無いということだった。
「また変なこと考えてます?」
「いや、至極当然の思考」
しかしこれほどの体積を胃に押し込めると言うのならば、それ相応の覚悟が要求される。お冷を流し込んで、くまだかつてない決心と共に、さあ行くぞとばかりに腕まくりをし、食器を手に取る。
しかし、向かいの雨傘制はしかし食器に手を付けようともしていなかった。
「食べないの?」
「写真撮ってからじゃないと勿体ないです。先どうぞ」
別に腹ぺこなわけではないのだけれども。
嗚呼相当、コッテリアブラもマシマシなのだろう。砂糖の量など考えただけで眩暈がする。胃薬が欲しい。トッピングに無いだろうか。
記念すべき一歩である。私はこれから、世界最高峰に挑まねばならない。
そう、しまだかつてない熱と共に口に運んだ、第一投目。
「……美味しい」
ド真ん中ストライク。
【遺書代筆・16】
「美味しくなかったですか?」
「美味しかったけど疲れた」
「楽しかったですか?」
「……まあ」
勝ち誇った顔をするならば一人でやって欲しい。
案外するりと平らげてしまった自分がなかなかに恐ろしい。こんな所で人間の可能性について新たな知見を得るとは思わなんだ。
完食後も、私達は席で相も変わらず写真を眺め続けていた。追加で頼んだコーヒーを喫しながら、ただひたすら【何か】を探す。
「瑠璃ちゃんと新葉君って仲悪かったんですかね?」
「仲が悪かったら、入学式にツーショットなんて撮らないんじゃない?」
校門の前で、襟を正す二人の写真を雨傘制に渡す。
瑠璃嬢の背後の看板には、半分以上隠れてしまっていたけれども『入学式』という単語が読み取れた。
「そうなんですよねえ……」
両手でしげしげと見つめて、しかし得心しない様子だった。
「何か引っかかることでもあったの?」
「いやーどうでもいいかもしれないんですけど」
「どんな些細なことでも構わない」
さいですかと頷いて、雨傘制は一枚の写真を取り出す。
岸波家の四人が河原で並んで写っている。バーベキューコンロや釣り竿が置いてあるところを見るに、キャンプでもしたのだろう。
「家族で並んで撮ってる写真なんですけどね」
呆けたことを語るように、手探りな様子だった。これが果たして意味ある行為なのか、彼女自身も疑っている。ただ、そうわかっていても拭えない疑念があったのだろう。雨傘制の唇は澱むことなく、すらすらと語る。
「一応全部を確認しました。瑠璃ちゃんと新葉君が隣合わせになっている写真は無いです。必ず、間に親御さんの片方が割って入ってる。
だから、なんか仲悪かったのかなーって……」
言われて頭に思い浮かべるのは、家族の並んだ様。パターンに分けて考える。
【①親、親、子ども、子ども】ではなく。【②親、子ども、子ども、親】でもなく。【③親、子ども、親、子ども】。
言われて頭を捻る。①はまあ、わかる。
仲のいい姉弟を並べて、写真を撮ろうとするのは理解できる理屈だ。
そして②はもっとわかる。愛する子どもを間に挟んで写真を撮る。宝物はしっかりと守らなければならない。
それはわかる。それらはわかる。
けれども雨傘制は言った。【必ず、間に親御さんの片方が割って入ってる。】
つまり③がこの家族のスタンダートという意味であって、それが如何様な理由から出来た列であるのか、わからない。数枚例があるだけならば何も問題は無いだろう。
けれどもこの場合争点となるのは必ず③であるということ。
雨傘制は何も語らず、私の答えを待っている。瑞々しい唇が語った妙な妄想に、確かに何かが引っかかる。
『幽霊だったりして』
まさかと目を擦っても、写真の岸波瑠璃は消えはしない。合成なんかではないのだ。
必ず、岸波真司か岸波まどかの隣に付いて、にこやかに。
これが仮に心霊写真だとしたら
「え?」
眼輪筋が張ってゆく。渾身を以て引かれた弓のように固く、張り詰める。脳が回る。必死に何かを考えて、考えて。
くら。
中心が揺れた。
嫌なことに気づいた気がする。けれども、何が不味いのかわからない。
いや──本当はわかっていて、きっとその一点がおかしいことにもうとっくに気づいていたけれども、明確にそれを口にしてしまえば、最早取り返しのつかない地点へと辿り着いてしまいそうな、
『岸波新葉は本当にあの二人の息子だったのだろうか?』
そう問いかけたのは自分自身。そう、あの家庭は歪なのだ。
あの時感じた不協和音。ぎりぎり鳴って唸って、まあいいかと耳を閉じたあの違和感が、もう一度足の裏の煉獄から顔を出す。
『岸波新葉はあの二人の息子だったのだろうか?』いいや、何故疑ったのだろう。私が疑うべきはもう一人。
もう一度写真に視線を突き刺した。私の見間違いではないか。雨傘制の間違いではないか。
この写真に、合成の跡は無いか。
ここを取り逃せば認めることになる。常識では語れない、不定形の法則。魔法と悪魔と幽霊と、不確かな現実から離れたものたちの実在を認めなければ、話が立ち行かなくなる。
貫くように。磨き直すように、写真を眺める。岸波家全員が笑っている。岸波家全員の目尻は下がり、口角は上がり、瞳は煌き、いいや違う。きっと違う。そんなことはありえない。この写真は合成、
では
無い。
「貴方は──」
「はい?」
「いや、ごめんなさい。ちょっと、さっきのケーキの写真、見せてもらっても良い?」
「おーいいですよ。共有しましょか」
「それは後で」
「欲しくはあるんだ」
うるさい。
取り出した携帯に映る写真には、先ほどの撲殺未遂のスイーツが写っている。ド真ん中に鎮座する、鮮やかで色味の明るい物体は、記憶の中のものよりも、ずっと迫力があった。
「私は写真のことはよく分からないけれども、そうね。普通、一番大切なものは真ん中に配置する」
「はあ、そうですね。端に寄せる取り方もありますけど、基本的には」
「仮によ」
雨傘制の言葉を遮るように、勝手にも言葉は口から流れ出る。独り言のような心地だった。
そうだ、②は最高だ。宝物を真ん中へ。
きっと写真を撮るならそんな風にするだろう。
だから岸波新葉は、必ず親に挟まれて、その小さな体躯は幸せに押しつぶされそうなくらいに笑顔に満ちている。
「仮に、三人家族だったらどんな並び順になる?」




