愛する残骸
ここにいても埒が明かないのは明白だった。
片桐都築は見開いていた眼を閉じ、そろそろ行動に出るべきだという本能に従うことにして、真っ直ぐ現実を見据えた。
そろりと武器になりそうな物を探す。
周囲の人々は電車の中を走り回っている。ガタンガタンと揺れる電車の中、異形の物が獲物を求めて彷徨い歩いていた。
〝それ〟は赤く鋭い鎌のような手をしており、目付きが爬虫類のように毒々しい黄色に染まっていた。猫背でガリガリに痩せており、病的な印象を与える。
3番線の入口から人を薙ぎ払いつつ(血が絶えなかった)、都築の元へ向かって来るように見えた。
今日も彼女は元気な笑顔を見せてくれるのだろうか。
そんな恋に恋する屈託ない日常から始まった。
都築は18歳の誕生日を目前にして、大学受験の参考書片手に外に出た。
遠くで犬が鳴いている。
鴉がゴミを漁り、近辺住人がエラい迷惑を被っていた。
いつも通り、古びた電車に乗り込むまで徒歩で15分もかからなかった。駅のチケットを差し込む。
『ピッ』
耳に馴染んだ音と共にカタカタと電車が滑り込む。
乗り込んだのは良いものの満席で、若者である自分が手摺に縋るしか無かった。
異変に気付いたのは3番線で怒鳴り散らすような大声とヒステリックな悲鳴が響いてからだ。
赤い大きな蟷螂のような化け物が、自分に向かって来る。
それはまるで特撮の怪物のようだった。しかし、真っ赤に濡れているのは何故だろう。
血だ。人間の血肉だ。
パニックのあまり逃げ遅れているのに大して気付くのに時間がかからなかった。
何かヤツと渡り歩く武器を見つけなくては。
化け物の口から唾液が漏れ、電車の床を汚す。臭気がムンムンと漂って来る。
都築は嫌悪感に顔を歪めた。
〝それ〟は都築の顔面に鎌のような鋭利な腕を振りかざした。
咄嗟に通学用鞄を掲げる。
「誰か助けてくれ!」
声にしたつもりだったが、恐怖で言葉が喉の奥でつっかえた。
鞄と鎌で力勝負をしている。軍杯はこちらの方が不利だ。〝それ〟は都築の身長を10センチは優に越えていた。
一瞬の隙を付いて、身を反転させた。その時、背中の上の方をザックリと切り裂かれる。
「……ッ!!」
生ぬるい血が背後を滴り落ちる。痛いと思うよりアドレナリンで脳が麻痺していた。
都築はそのまま〝それ〟に体当たりをかました。
ひょろひょろの身体が〝それ〟の弱点であることも大いに考えられた。
〝それ〟はメトロノウムのように揺れると殺気に満ちた目で都築をギョロリと睨みつけた。
ゾクゾクと寒気がする。咄嗟にパイプで出来た出入口の取っ手の後ろに隠れる。
〝それ〟は意図も容易く、パイプを真っ二つにした。そのまま都築を切り裂こうと前のめりになった。
引き裂かれ鋭利になったパイプ菅の1つを都築は何とか拾い上げ、奇跡的に〝それ〟の目に突き刺さる。
痛みに耐え兼ねた〝それ〟はがむしゃらに暴れ、都築の左腕や左足と接触し、切り裂いた。鋭い痛みが今更になって危険信号を発した。
ーー何かヤツを殺す手段はないか。
ふと炎のイメージが脳裏に過ぎる。心の中をメラメラと揺らぐ。
都築は手を広げ、天に祈るように掲げて、己が何をしようとしているかいざ知らず、本能のままに呪文を唱えた。
何か起こるはずがなかった。
しかし、青い炎が熱烈に女性にアタックを仕掛ける男性のようなしつこさで〝それ〟を焼き焦がした。〝それ〟は火達磨になって地団駄を踏むように電車を揺らした。火を消そうと闇雲に暴れ回る。
「ウギャァァァー!!!」
耳を防ぎたくなるような声を上げて〝それ〟は灰と化す。一瞬の出来事だった。
尋常ではない集中力に体の力が抜けていくのが分かった。
〝それ〟は都築を狙い、返り討ちに逢ったのだ。
「何だよ、一体」
都築の戸惑いと困惑に答えるかのように血塗れの電車の中でホログラムが現れた。
『おめでとうございます』
冷酷そうな女性の声に讃えられる。
都築は呆気に取られて、一瞬思考停止していたが、紛れもない現実と傷の痛みが訴えかけていた。
「おめでたい?こっちは最悪の気分だよ!」
シュールな絵面になったが、笑う人は誰もいなかった。電車の中は都築を除いて、いつの間にかもぬけの殻だった。
『あなたはプレイヤーです』
「ちげぇよ」
どうせ無視されると思いつつ、抗議の声を上げる。
『これから、《黒夢》があなたを狙って来ます』
『あなたはそれを撃退する能力を持っております。物理はコストはかかりませんが、非効率的です。一方、魔法は効率的ですが、代価を支払わなければいけません』
伝えたいことは客観的に簡潔に伝えるAI的思考に戦慄を覚える。内容も声と似て残酷だ。これから毎日、あんな物が命を狙って来るのか。
冗談ではない。
「冗談じゃねえぞ」
ポツリと言葉が漏れた。それは自分でも思っているより、低い声だった。ピンチに立たされた人間というのは、意外と冷静らしい。しかし、怯えているのか微かに震えていた。
人間の切断された手足が落ちている現場に居合わせる恐怖のあまりに朝食に食べたシュガートーストのゲロを撒き散らす。甘い匂いと腐臭の入り交じった独特の臭いが漂った。
「どうして、俺なんだよ」
嗚咽と咳を混ぜたような変な音を上げながら、辛うじて聞き取れる言葉を吐いた。
淡々とした調子でホログラムの綺麗に整い過ぎた顔の女が口を開ける。
『今日のフェブラリティコストは13です』
「何なんだ、それは」
『言うなればあなたから他者への好感度であります。マジックポイントーー俗にゲームで言うMPは好感度の度合いで決まります』
理解を促すような間が空く。
『低コストの場合、好感度の低い方から。高コストの場合、好感度の高い方から抹殺させて頂きます』
何かがおかしいと思ったら、既に好感度13の人が殺されていることになるのだ。しかし、魔法を使わず、《黒夢》を退けられる自信が湧かない。
「俺に死ぬか殺人鬼になるか、選ばせたいのか」
言葉を選びながら続ける。
「なあ、せめて嫌いなヤツを死なせてくれ」
自分が如何に姑息な人間か知っていた。しかし、最低さに自己嫌悪が胸を過ぎる。そんな正義感を抱く程、偉くないだろと自分を窘めた。
美しさがより残酷さを極める顔でホログラムが告げた。
「それは私の決めることではありません」
都築は停車した電車から降りて何もかも忘れることにした。そうしないとまた吐瀉物で服が汚れるかもしれなかった。
「ヅーキ!どうしたんだよ。その格好」
幼馴染みであり、恋人でもある神咲沙苗が心配そうに、長いポニーテールを揺らして走り寄って来る。スレンダーな身体だが、彼女の笑顔に靡く男は多かった。
「ちょっと転んじゃって」
我ながら馬鹿にしていると思う。都築は沙苗の頭を軽く撫でた。
「救急車呼んだ方が良くないか」
言葉遣いは男勝りだが、茶目っ気のある可愛い声で沙苗が応じる。
変な話ながら、病院より保健室で診てもらった方が良いと本能が告げていた。怪物がいたなんて話をしたら、もう日数の少ない高校生活に終止符を打つことになる。最悪、精神病院に閉じ込められて、青春は終わるだろう。
「沙苗、ちょっといいか」
沙苗は不思議そうな顔をして都築の顔を見据えた。
「どうしたの?ヅー」
「今朝、変な事件なかったか」
「変な事件か……。例えば?」
都築が口篭る。
「化け物が今朝の電車に乗り込んだとか。俺の好きそうなヤツが死んだとか」
沙苗は高々に笑い出した。
「またそうやってからかう!昔から馬鹿なヤツ!」
都築は戸惑いつつも、狼狽を隠し通すことにした。
「つまんねー反応だな。せっかく引っかかると思ったのに」
沙苗はホッとする笑顔で言った。
「バーカ」
都築まで釣られて笑う。