第56話
初夏を迎えてすっかり暖かくなったカールッドには、社交界に新たなイベントが訪れようとしている。
チャリンド邸でも、ようやく謹慎を解かれて久しぶりに朝食の席に姿を見せたアニエを交えて、その話でもちきりとなっていた。
「竜騎兵レース、ですとな?」
スタンドに立てられた半熟ゆで卵のソースがけをつつきまわす手を休め、ミュリエラは声をあげた。
「ええそうです、伯爵夫人様」と、クロード。
「わらわの聞き間違いでなければ、ドラゴンに騎乗して早駆けを競うものと思われまするが」
「あら、伯爵夫人様の故国に竜騎兵はございませんでしたか」
ジゼが意外そうに言った。
「考えられないことではありませんよ、母上」と、コリノ。
「竜は飼育が大変なんです。南方大陸の生き物ですから、冬を越すための特別な厩舎や、繁殖のための牧場を植民地に建てたりしなくちゃいけません」
「その通り。とにかく金がかかる、あれは」
クロードが口をナプキンでぬぐいながら言った。
「竜騎兵連隊を維持できているのは、世界でもメーノンはじめ数か国だけでしょう。なぜ普通の馬の騎兵だけじゃ足りないのか、私にはよくわかりませんが」
「竜の鳴き声は馬を怯えさせるのです」と、コリノが答える。
「それに、あの巨体です。集団で立ち上がって威嚇して、騎馬突撃をかき乱してしまうんです。対騎兵兵科として有用ですが、逆に言うとそれ以外に使いみちがないので、手間をかけて運用する国は限られます」
「コリノ、おまえ、陸軍で騎尉を目指してみたほうがいいんじゃないか」
父親のクロードは息子の博識ぶりに鼻が高いようだった。
「そういうわけで、レースには貴顕の方々もお見えになりますし、いつまでも娘を家に閉じ込めさせておくわけにはいかなくて」と、ジゼ。
「軍人の方々やそのご家族、特に若い士官などがよく見られるのです」
士官と聞いて、アニエの食事の手が止まる。
顔には憂鬱な色がうかがえた。
その一方、ミュリエラは内心、竜と聞いて興奮を抑えるのに必死で、アニエの様子に気づくことができなかった。
「(竜じゃと!? 魔力の絶えた現代でどうやって生き残ったのじゃ……?)」
竜は魔法的な生物だ。
矢も通さぬ固い鱗に覆われた重量級の体を、小さな翼を羽ばたかせて雲より高く風より疾く飛び、他の生物と同じく柔らかい口の中から灼熱の炎を火傷もせず噴き出させる。
自然に反したその有り様は間違いなく魔法の産物であるが、普通の魔物と同じく魔王の支配下にあるわけでもなく、高い知性を持ち、人類と敵対したり敵対しなかったりする。
ミュリエラも遠い昔、深いダンジョンの奥底で、老いた竜と魔法の秘奥について夜を徹して語り明かしたものだ。
あの誇り高い種族がまだ生き残っているという事実には嬉しさを感じるし、その背に人を乗せて戦いに赴くなどという話にいたっては浪漫を覚えてならない。
だが、飼育だの繁殖だのといった文言は気になった。
人間族の使用人となってはいても尊厳と独立性は失っていないエルフ族と違い、それではまるで奴隷どころか家畜ではないか。
「……興味深い催しでございますの、クロード殿」
「でしょう? うちも家族総出で赴く予定です。ぜひご一緒に、伯爵夫人様」
チャリンド家の頼みとあれば、ミュリエラも断る理由がない。
ましてや、竜である。
「それにしても、竜の速さを競わせるとは、なぜそのような考えに至ったのやら」
「ああ、それはですね……」
社交の話となるとクロードは饒舌だ。
コリノの言う通り、竜は寒さに弱い。
長い冬を暖かい厩舎で過ごした後、ようやく竜が活動できるまで気温が上がった季節に、眠りから覚めた彼らの体調や能力をチェックする試験を行う必要がある。
それがレースの起源なのだという。
騎兵は戦場の華だ。
それが竜にまたがっているとなれば、人目を惹こうものである。希少性に目を付けた貴族や富裕層が金を出し合って馬主ならぬ「共同竜主」となり、見栄を張り合って競うようになるのに時間はかからなかった。
「私もひと口、乗っていましてね」と、クロードが得意げに口ひげをひねる。
出資のサークルはそのまま社交のステージとなり、レース本番ともなると出資者の共同竜主たちが家族連れで競馬場──この日ばかりは競竜場となる──を訪れ、交流を深める絶好の社交の場となる。
しかし、そういった軍事に関係する催しであるゆえ、本来、女性は観戦できないタテマエなのだという。
「……では、アニエ嬢もジゼ殿も、わらわも参加できぬのではありますまいか?」
クロードはにやりと笑う。
「そこはそれ、仮面の使い分けはおえら方の得意とするところでございまして」
クロードがそう言った理由はすぐにわかった。
カールッドの大通りに面したとある店の前にチャリンド家の馬車が停まり、リリとビブリン、続いてミュリエラとアニエが降り立つ。
店の看板には名前がなく、ただ顔の上半分を覆う仮面が三つほど掲げられているだけだ。
「ここは……仮面の店のようじゃな?」と、ミュリエラ。
「はい、その通りです、伯爵夫人様」リリが答える。
「なるほど。匿名の手段を商うゆえ、店名も掲げぬと。洒落が利いておるの」
仮装してしまえさえすれば、誰かもわからない存在となり、女人禁制の場に立ち入っても咎められぬ──そんな理屈らしい。
店に入る。
「いらっしゃいませ!」店員の声が響く。
「……すぐ参りますので、その辺でお待ちくださいませ!」
どうやら他の客の応対をしているようだった。
今年、社交界にデビューしたばかりのアニエは、初めて訪れる店なだけあって、きょろきょろとあたりを物珍しそうに眺めている。
あたりは様々な装飾を施した色とりどりの仮面でいっぱいだった。
「既婚者と未婚者とで、選ぶべきものが違うのです、お嬢様」と、リリが説明する。
「同じ未婚者でも、求婚を受けつけている者、またはすでに婚約が決まっている者でも差がありますし、当然ですが主人とお付きの者でも選ぶべきものは違います。参加する社交の場でもそれぞれ、プロトコルが違います」
「どれを選べばいいかわからないわ」と、ずっと憂鬱な顔色のアニエが言う。
「そのために伯爵夫人様に来てもらったのです」
リリはミュリエラに水を向けた。
「なんじゃと?」
「さすがに私も細かい流儀までは存じ上げませんから。上流階級のご先達として、アニエお嬢様へのご指導、よろしくお願いいたします」
ミュリエラは困り果てた。
なるほどジゼが付き添わなかったのは、もう彼女は自分用の仮面を持っているからなのだろう。反面、身ぐるみはがれてメーノン王国へやってきたという「設定」のミュリエラは仮面を用立てる必要があるのは確かだが、何を選ぶべきかは当然、分からない。
ミュリエラがどうしたものかと思案していると、店員が応対していた女性客が振り向き、声を響かせた。
「あら。驚いた。アニエじゃない」
聞きなれた声だった。
「ティネさん!」
予期せぬ友人の登場に、アニエがぱっと顔を輝かせる。
「貴女も仮面を注文しにきたの?」
「ええ、そうなの!」
「伯爵夫人様もいらっしゃいましたのね」
「ティネ嬢、お久しゅうござりまする。お一人ですかや?」
ティネも未婚の貴族令嬢だ。
アニエと同じく外出には付き添いを必要とするはずである。
その彼女が一人で買い物に来ていることをミュリエラは訝しんだ。
「え? ああ、メロエレ! 出てきてよ! 誤解されちゃうじゃない」
一人のエルフが音もなく姿をあらわす。
こげ茶色でくるくるとした巻き毛を持つ、小柄な少女だった。
エルフの例にもれず、華奢で儚い美しさに満ち溢れている。
彼女がティネの、アニエにとってのリリにあたるお付きのメイドらしい。
メロエレはまず、一同の中では最も高い称号を持つミュリエラに恭しく一礼すると、続いて主人の友人ではあるがいちおう平民であるアニエに対し、やりすぎない丁重さで礼をした。
そして、驚いたことに、ほんのわずかだが、リリにうなずいて頭を垂れたのをミュリエラは見逃さなかった。
このような場面で召使いが召使いに挨拶をするのは珍しい。
対してリリは特に返礼するでもなく、控えめに主人の背後に侍っている。
もしかしたらリリは、エルフ族の中でも名の知れた人物なのかもしれないとミュリエラは思った。
「ティネさん、お付きのメイドのかたを連れて外出できるの? ずるい」
アニエが口を尖らせる。
「メロエレはお父様から信頼されてるのよ」と、ティネ。
「私なんか、リリだけ連れてお出かけしちゃいけないって言われてるのに」
「まあねえ。貴女、ちょっと危なっかしいからね」
「あ、ひどーい」
そんな二人の会話を眺めながら、ミュリエラは内心しめたと思っていた。
ティネの力を借りれば、おのれの女伯爵の称号の張りぼて加減を隠してこの場をしのげるかもしれない……。
ミュリエラが口を開く。
「ティネ嬢も仮面を拵えるのは初めてであろう? それにしては、手慣れておるようじゃな」
「そうですわね。いつだったか言いましたけど、結婚市場は戦い、戦いは情報を制するものが勝つのでございます。今年の仮面の流行りくらいは調べてきております」
「なんと。そこまで用意されておりましたか。流石じゃなぁ……」
ミュリエラは仰々しく驚くと、肩をすくめてみせた。
「……カールッドの仮面界隈の、ましてや若人の流行など、わらわなどには追いつけませぬ。ジゼ殿から大任を引き受けましたのに、この分ではアニエ嬢に恥をかかせることになりそうじゃ」
ティネは頭をそらし、にやりと得意げに笑うと、胸を叩いた。
「そういうことでしたら、この私にお任せください、伯爵夫人様」
店内に所狭しと並べられている仮面は、あくまで見本である。
この中から気にいったデザインをつまみ出し、店員に言いつけて細かい変更のオーダーを出し、サイズを測って作らせるのである。
仮面は、紙を貼り合わせて石膏で固めたものだ。大量の絹と細密なレースが複雑に絡みあう芸術品たるドレスほど手間のかかる代物ではないので、発注すれば二、三日で屋敷に届けられる。
ティネはここぞとばかりに教えたがりな性格を発揮し、アニエにあれこれと解説しはじめた。
「私たち未婚者は黒の仮面よ、アニエ」
「黒?」
「そ。黒い仮面に、白絹のヴェールを合わせるのが基本ね。白いヴェールは純潔の証し。つまり、未婚ってことよ」
「じゃあ、私、これがいいな」
と、アニエは顔の上半分を覆う黒い仮面を手に取った。
鼻の部分が鳥のくちばしのように突き出している。
「あら、あら、だめよ、アニエ」ティネが手を振って止めた。
「どうして?」
「そういう半マスクは既婚者用。口もとを晒せるのは一人前のおとなっていう意味らしいわ。求婚を待つ身なら、白絹のヴェールに顔全体を覆う黒い仮面。もう先約がいる身なら婚約指輪を模した輪の耳飾りを下げて、求婚をお断りするの」
「へえ……」
「それに加えて、今年のドレスの流行──貴女のふくらみ袖に合わせて、ヴェールは短めにしましょう。肩や胸を覆うドレスに長ったらしいヴェールを合わせたら、暑くってしょうがないわ。見た目も、もっさりしちゃうし」
どうやらティネに任せる作戦は成功したようだ。
話を聞いているだけで、アニエどころか、ミュリエラが選ぶべき仮面もだいたい決まってしまいそうであった。
「お詳しいですじゃな、ティネ嬢。わらわの出る幕などありませんの」
「私みたいな器量なしが顔を隠して社交できる場ですもの。気合が入るというものですわ……」
ミュリエラの言葉に、ティネはちょっと皮肉っぽく笑って、そう答えた。
「ま、そんなわけで、私のおすすめはこれね」
ティネが金の線刻をほどこした黒い仮面を取り上げた。
「線刻が入ってるでしょ。これは婚約はしてないけど婚約の近い者の仮面。アニエ、貴女は例の子爵閣下がいるんだし、これをつけて先約ありをアピールしつつ、より上の物件を狙うべきよ」
するとアニエは顔から微笑みを消し、首を振った。
「いえ、それはやめとくわ、ティネさん」
「え……?」アニエの拒絶にティネが戸惑う。
「どうしたのじゃ、アニエ嬢。ティネ嬢の見立ては過不足ないものと存ずるがの」
アニエはミュリエラを振り返り、信じられないといった顔をした。
「だって……そんな……あの……」
「どういうこと、アニエ? ノールドルストム子爵と何かあったの?」
ティネも眉をひそめた。
アニエはティネとミュリエラの顔を交互に見やり、沈痛な面持ちで言った。
「……子爵閣下は、ミュリエラ様とお付き合いなさってるんでしょ?」
ミュリエラとティネは同時にのけぞり、叫び声をあげた。
「えーーっ!?!? そうなの!?!?!」
「ななな、何を申すのじゃ、アニエ嬢!?!?」
「えっ、だって、こないだ、うちで手にキスされてたし……」
「いやいやいやいや! 騎士が貴婦人の手に口づけするなど、わらわの時代でも珍しゅうござりませんでしたぞ!?」
「そうよ、アニエ! だいたい、伯爵夫人様は既婚でしょ!?」
「あの……えっ……でも……」
アニエはもじもじしながら、声を落としてそっとささやいた。
「……伯爵夫人様、だんな様をお亡くしになってるんですよね? だったら……」
ミュリエラは目をぐるぐると回した。
「あーっ……いや……まあ……そうなのじゃが……」
「あら、伯爵夫人様、未亡人でいらしたのね。伯爵未亡人の称号をお使いになってないから、ご主人がお国にいらっしゃるものかと──」
ティネはそこまで言って、はたと気づいたようにつぶやいた。
「あ、そうか。未亡人の貴族称号って、限嗣継承法のせいで爵位の所在にうるさいメーノンだけのものなのね。伯爵夫人様は外国の方だから、関係ないのか……」
ミュリエラはため息をつきながら、きっぱりと告げた。
「アニエ嬢よ、わらわが伴侶と願うた者は後にも先にもただ一人、それももう亡い。遠い遠い昔と雖も、わが胸中より彼の者が消えたことはない。ノールドルストム子爵とわらわの間には何もないと、はっきり申し上げまするぞ」
親友ふたりから勘違いを訂正されたアニエの顔からは、ここ最近にわたって漂っていた憂鬱な色がみるみるうちに消え去り、太陽のような表情が蘇った。
「よかったじゃない、アニエ。子爵閣下は、まだ貴女の予約物件よ」と、ティネ。
そう言われたアニエははっと気づいたような顔をしてからきっと口を結び、ぷいと横を向く。「別に、子爵なんか、どうとも思ってないから」
アニエはティネから勧められた仮面を手に取ると、用は済んだとばかりに店員の元へすたすたと歩いていってしまった。
歩き去るアニエと、その後を追うリリの姿を見送りながら、ミュリエラはやれやれといった風でつぶやいた。
「まあ、わらわとノールドルストム子爵殿が結婚すれば、わらわもさすがにチャリンド邸を出ていかねばなりませぬからのう。あの態度も当然じゃて」
ティネが首をかしげる。「おっしゃる意味がよくわかりませんけども」
「わらわとアニエ嬢は、もはや鋼のごときと言ってもよい友情で結ばれておりまするのじゃ」
「ええ、そうみたいですわね」
「嫌いおる男子に無二の友が嫁ぐというのは、あの年頃の娘にとって必ずしも愉快なものではござるまいよ」
ミュリエラはアニエの後を追ってその場を歩み去った。
この言葉を聞いたティネは、ミュリエラの後ろ姿を見つめながら口をあんぐりと開け、呆れたように独り言ちた。
「驚いた。伯爵夫人様ったら、恋の機微にまったく疎くていらっしゃるのね。あんなに頭のよい方なのに、不思議ねえ……」
読まなくてもいい作中のメーノン語の解説
drál 【名詞】竜、ドラゴン
drálvua 【名詞】竜騎兵。竜にまたがった騎兵。乗馬した銃兵ではない。
glwum 【名詞】マスク、仮面。半分を示す接頭辞 hel- をつけてhelglwum、半マスクとなる




