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第54話

「なな、な、なななな、なに言ってやがんだ、馬鹿!!」

 と、ダフドーは飛び上がって【肝喰らい】に叫んだ。

「こんな得体の知れねえ手品師の女を女房にするだと!? イカれちまったのか、兄弟!?」

「イカれてなんかいねえよ。惚れたんだ。それだけだ」

「イカれてねえんだったら、ノボせあがってんだ!」

夫婦(めおと)の契りの相手が仙女ってんなら、錦上添花(きんじょうてんか)の極みってもんだろう」

「仙女じゃねえ! あんなの手品だ!」

「手品にかけちゃ右に出る者のないドワーフのお前から見てもか?」

「……ぐっ、そ、それは」

「俺は」と、ナサリアドゥ。

「大賛成だ。書庫を守(ウルマ・ン・アショ)護する娘(グ・ン・イ=ウェカ)が家族になれば、母なる地への帰還を女神へとりなしてくれるかもしれん」

「ダフドーの兄弟の言う事には一理ある」と、シシー。

「正体の分からんやつを一家に迎え入れるのは情報部門(うち)としても賛成できない。王宮の回し者だったら一巻の終わりだよ」

 真っ二つに割れた意見に【肝喰らい】は手を振って答えた。

「回し者たって、仙術を操る仙女に(パン)を探られたらもう、(かな)わねえだろうが。女王の手先なら尚更、お手上げだ。第一、俺はお前らじゃなくて、書霊妙智仙娘シューリン・ミャオジー・シェンニャンと話してんだ」

 そう言って【肝喰らい】はビブリンを見つめる。

「ビブリン嬢。いや、仙娘(シェンニャン)。あんたは目的があって俺たちに近づいた。そして、連れの男──リューメックって言ったか──の命も助けたい。だが俺は(パン)を守らにゃならない。その一方で、海嘯娘々ハイシャオ・ニャンニャンに帰依する道友(ダオヨウ)を殺すわけにはいかないが、シシーの言う通り、女は(パン)に入れん。八方ふさがりだ。だが、方法がある。問題を一気に片付ける方法が」そこで【肝喰らい】は、いったん言葉を切って続ける。

「……家族になりゃいいんだ。俺と夫婦(めおと)になっちまえば、あんたも(パン)の一員だ」

 ビブリンは答えた。

「確かに、論理的ではあります。ですが、そのように特殊な人間関係を結ぶとなると私の一存では決めかねる部分が大きく……」

海嘯娘々ハイシャオ・ニャンニャンにお伺いを立てる、ってか。いいぜ、いくらでも待つ。だが、お許しが出たら、俺の女になってくれるか? 誰からも文句の出ない形で、俺はあんたと祝言をあげたい」

 そう言う【肝喰らい】の表情はあくまで真剣だった。

 ダフドーがうんざりしたように口を挿む。

「だからこうして文句言ってんじゃねえか、兄弟、いつもお前は──」

 と、部屋の扉が開き、息せき切って(パン)の一員と思しき若い者が飛び込んできた。


幇主(レーヴア)! 手入れだ! すぐそこまで軍隊の連中が来てやがる!」


 一同に緊張の色が走り、口論はぱたりと止んだ。


「兄弟!」と、ダフドーが叫ぶ。

「慌てるな。いつものことだ。手はず通り行け」と、【肝喰らい】は落ち着き払って言うと、矢継ぎ早に指示を出し始めた。

「ダフドー、お前は手下どもで()()()だ。ここを引き上げて、西の四の辻の隠れ家に一切合財、運び込め。帳簿を忘れるなよ。シシー、来たのは陸か海か、どっちだ」

「王都の陸軍は連隊まるごと出征したばかりだから余裕がないと思うけど」

 シシーは一報を入れた若者を呼び寄せて二言三言、囁きあった。

「……うん、やっぱりな。海だ。水兵狩りのついでに手柄を挙げようと考えた軍人でもいたんじゃないか」

「海なら、ドワーフの線を頼れるな。ダフドーは仕事が終わったらシシーと協力して揺さぶりをかけろ。ナサリアドゥ、お前は──」

 幇主(レーヴア)たる【肝喰らい】が指示する前に、ナサリアドゥは胸を叩いた。

「わかっている。俺の実行部隊はすでに姿を消している。俺は、父たるお前と女神のしもべを護衛する」

 そう言ってナサリアドゥはビブリンに歯を見せて笑いかけた。

書庫を守(ウルマ・ン・アショ)護する娘(グ・ン・イ=ウェカ)をお守りできるとは、なんたる光栄」


 情報処理に特化した魔導具であるビブリンことビブリオティカですら状況の変化に対応しかねていると、扉から数人のドワーフがどっと押し寄せるように入室し、何も言わず蝋燭や灯篭で飾られた祭壇を片付けはじめた。

 その手際は、手業の匠たるドワーフの技の極みとも言えるものだった。

 数秒も経たぬうちに部屋の外観は変わり、さらに片付けた品物は魔法のように木箱や袋に吸い込まれていく。荷物を担いだドワーフが出ていくと、ダフドーはビブリンを一瞥したのち【肝喰らい】に「話はあとでな!」と言い残し、姿を消した。

 シシーも無言で【肝喰らい】にうなずき、部屋を出ていく。


 残ったのは空っぽの部屋と、ビブリンとナサリアドゥ、そして【肝喰らい】。

「さて、俺たちも行くぞ。仙娘(シェンニャン)。ついてきてくれ」

「リューメックさんはどこです?」

「心配すんな。安全な場所に移してある」


 メーノン王国海軍海尉心得(ヴァルカップ)のサウズンとデムケンは、海兵隊を率いて貧民街のバラックや酒場を片っ端から暴きまわっていた。

 水兵の強制徴募である。

 行政単位で徴兵ができる陸軍と違って、海軍は必要人員を安定的に満たす制度がまだなく、志願制が建前となっている。

 過酷なうえに賃金も低い水兵のなり手は、当然、少ない。

 そこで、定期的に海軍は徴募隊を組織して、文句の出なさそうな社会の底辺を攫って、半ば拉致のように男性を狩り集めるのだった。

 この任務は通常、海尉以上の軍人が指揮官として割り当てられる。

 しかし、この日、任務に当たるはずだったノールドルストム海尉は「訓練と考査を兼ねて」という名目で、部下のサウズンとデムケンに指揮を委ねていた。

 ノールドルストム海尉は自宅で休暇中だ。

 あの勤勉な海尉(シュザーディリン)殿らしくもないが、本来、貴族とはそういったものなので、サウズンとデムケンは気にも留めていない。それよりも、この任務をそつなくこなせば海尉(シュザーディリン)への昇進が近くなるともなれば、二人の海尉心得(ヴァルカップ)の指揮にも熱がこもる。


「おい! そこから逃げようとしてる連中を捕まえろ! 老人には用はない、人間族の五十歳までなら現役で徴用だ。飲んだくれでも構わん、ろくでなしに女王陛下に奉仕できるまたとない機会を与えてやれ!」

 サウズンが先頭に立って貧民街を蹂躙する海兵を指揮している。


「ぶっ壊していいのは、掘っ建て小屋のみだ。煉瓦と石造りの建物は酒場を除いて法で保護されてる。火の気にはくれぐれも気をつけろよ。──こら、やめろ! 殴るんじゃない! 大事な()()()だぞ」

 デムケンは一歩下がり、のちのち面倒ごとが起きないよう気を配る役回りだ。


 すでに夜は更けていた。

 海兵は手に松明やランプを持ち、炎の明かりを振りかざしてあたりを照らし、手当たり次第にそこらの建物を家探しして、若い男を捕まえていく。

 粗末な木の柱と板と布でできたバラックを海兵が乱暴に潰すと、中から男たちが這い出て一目散に逃げ出した。

 彼らは周囲の石造りの家へと駆けこむ。

 そこなら軍隊も手出しできないとわかっているのだ。

 サウズンが叫ぶ。

「考え無しに掘っ建て小屋を潰すな! 周囲の家の戸口を封鎖してから潰せ!」


 そんなサウズンとデムケンの奮闘ぶりを、陰からナサリアドゥが見つめる。

「……こっちはダメだ。今日の海軍はいやに張り切っていやがる。昇進でもかかってるのか?」ナサリアドゥは舌打ちする。

「やつらの荒らしまわる先がわからん。下手に動けない」


 ビブリンは大人しく【肝喰らい】とナサリアドゥに同行しながら、いっそのことこのまま海軍に投降してしまう選択肢について検討したが、そんなことをすれば(パン)は報復としてリューメックを殺してしまうだろうし、今のところ、彼ら二人は子爵家の白磁の器へつながる、裏社会の唯一の窓口であることを考えると、むしろ彼らを保護すべきであると結論した。


「このまま北へ向かってください。海軍が通ったあとの道を横切って、その向こうへ行くのです」ビブリンが落ち着き払って言った。

「北だと?」と、【肝喰らい】が応える。

「彼らは渦巻きの円を描くように動いています。そして円を狭めて、最終的に獲物を一網打尽にする作戦でしょう。一種の巻き狩りですね。ならば、追われて逃げるのは得策ではありません。むしろ、早めに円の外へ出てしまえばよいのです」

「なんでそんなことがわか──」と、【肝喰らい】は言いかけて止めた。

「ああ。いや。仙娘(シェンニャン)の神通力は実証済みだったな」


 掘っ立て小屋を打ち倒し、酒場の看板を掲げた店に片っ端から突入していく海兵の陣頭指揮を取っていたサウズン海尉心得は、いまどれくらいの「志願兵」を()()できたかを同僚に問いかけようと振り返った。

 その視界のはしに、一瞬、黒い肌を持つ南方人の姿が松明の明かりに照らされてちらりと覗き、路地に入っていくのが捉えられた。

「南方人がいたぞ。珍しいな」

「いや、珍しくないだろ」と、デムケン。

 デムケンの答えにサウズンは意外そうに応える。

「南方人といえば、おおかた奴隷だろ。それか、王宮で飼ってる輸入ものの宦官か。そんな()()()がこんなとこにいるのは妙だ」

「妙じゃないぞ。逃亡奴隷だよ。あいつらは奴隷商人の檻から逃げ出しても、故郷に泳いで帰るわけにもいかず、さりとて肌の色のせいで街中にも溶け込めない。行きつく先が貧民街(ここ)ってこと」

「はあ、なるほどね……」

「逃亡奴隷の摘発は管轄外だ。放っておけよ、サウズン」

「あいつら、どうやって食っていってるんだ?」

「さあな。盗みでもしてんじゃないか」


 サウズンは上司のノールドルストム海尉から命令を訓示される時、珍しい念押しをされたのを思い出していた。


「──酒場は特に念入りに調べろ、海尉心得(ヴァルカップ)

「はい、海尉(シュザーディリン)殿」

「酒場は得てして、違法な取引の現場になる。ましてや場所が場所だ。摘発時に盗品とおぼしきものが見つかるかもしれない」

「その通りです、海尉(シュザーディリン)殿」

「で、だ──もし場所にそぐわない高級な品物──ぴかぴか光る白磁の器とか──そんなものが見つかった場合、細心の注意を払って押収するように。いいか、決して傷つけたり、部下がちょろまかしたりしないよう、お前が目を光らせるんだ」

「捜索と押収も任務のうちですか?」

「いや。だが、犯罪の被害者の手に盗品を取り戻してやったとなれば、感謝されるはずだ。それが貴族だったりしたら尚更……。あー、ゴホン。これはあくまでただの助言だ」


 ちゃくちゃくと水兵狩りを進める海兵たちを前にして、サウズンは「ロウガム砲手長!」と叫び、部下のドワーフを呼び寄せた。

「へい、何すか、海尉心得(ヴァルカップ)殿」

「今から別動隊を率いていく。二、三人、都合してくれ」

「了解しやした。おーい! ドジャメツ! ユンポフ! ビスハス! 仕事だ、集まりやがれ!」


 ビブリン、ナサリアドゥ、そして【肝喰らい】の三人は、看板に奇妙な赤い塗料で印のつけられた酒場へと入った。

 そこは空っぽの酒場で、荒れ放題でほとんど廃墟といってよかった。

「ここは俺たちの確保してる隠れ家の一つなんだ」と、【肝喰らい】。

「だが、長居はできないな。しばらくやり過ごして、それから移動しよう」

「俺は戸口を見張る」そう言ってナサリアドゥは部屋から出た。

 壊れかけた窓から差す明るい月光がひっくり返った椅子やテーブルを照らす。

 その間に、ビブリンと【肝喰らい】のみが残る。


「……仙娘(シェンニャン)」と、【肝喰らい】が口を開く。

「まだ返事を貰ってなかったな。俺の女になってくれないか」

 ビブリンは注意深く答えた。

「先ほども申し上げましたが、それはやはり私の主人にお伺いする必要が……」

「ああ、それはそうだろうよ。じゃなくてさ。俺はあんたの気持ちを聞いてるんだ」

「交渉としてはいささか不均衡かと思います。私はリューメックさんの命をあなたがたに握られています。人質を取られた状態では私の意向など関係ないでしょう」

「……そうだな、その通りだ……いや、確かに俺たちは大手を振って歩けない悪党だよ。人を騙したり傷つけたりすることだってある。だが……女房にしたいと思った女の気持ちを知りたいと思うのは当然だろ」

「こういった求愛の作法においては」と、ビブリン。

「男性は、女性に無償の贈り物を与えて歓心を買うものかと。今のところ、私が欲しいものはひとつです」

 東洋人の男は頭をかいた。若いながらも沈着冷静、威厳に満ちて(パン)を取り仕切っていた男の年相応の心の揺らぎが見てとれた。

 よくよく見れば、まずまずの好青年でもある。ビブリンは人間の美醜を感性で判断できないので、あくまで他の人間男性と比較したところの推察にすぎないが。

「……なあ、本当にあの連れの男は、あんたの恋人(イロ)じゃないのか」

「はい」

 東洋人の男はため息をついた。

「わかったよ。参った。あんたの連れは、人質じゃない。家に帰す。保証する。引き換えに俺の女になれとも言わない」

「その言葉をお待ちしていました」

「不思議なもんだ。あんたが本当に仙娘(シェンニャン)かどうかはまだよくわからんが──」

 厳しい表情をしたナサリアドゥが部屋に駆け込む。

「まずいことになった。軍隊の別動隊が表にいる。二人とも音を立てないでくれ」

「やり過ごせそうか?」

 ナサリアドゥはうなずく。

「ものを知ってるやつなら、あの看板の印を見て、ここに入ろうとはしない」


 サウズン海尉心得に率いられたドワーフの一隊は、酒場とおぼしき粗末な建物の前に到着していた。

 ロウガムは松明を掲げると、建物の看板にある赤い塗料の印を見て驚いた。

「ここは……いかんです。いかんですぜ、海尉心得(ヴァルカップ)殿」

「いかんって、何がだ」

「とにかく、いかんのです」

「いかんですむか。ロウガム、わけを言え」

「ええと、あの、まあ──」

 ロウガムは目を泳がせてから、サウズンの耳に小さくささやいた。

「この手の掃きだめにはつきものの、郎党ってもんがあるんですよ、海尉心得(ヴァルカップ)殿」

「郎党だって?」

「えーと、その、まあ、一種の団体といいやすかね。関わり合いになると、まじでロクなことになりやせん」

「我々は女王陛下の海軍だぞ。何を恐れてるんだ。ビビるのは向こうの方だ」

「考え直してくだせえ、海尉心得(ヴァルカップ)殿! 俺らは旦那がたと違って、しがらみってモンもあるんですよ!」

 サウズンは苛ついて叫んだ。

「もういい! 俺ひとりで行く。(ボマラス)をよこせ!」


 酒場の扉を乱暴に叩いて破ろうとする音を聞き、ナサリアドゥは目を丸くした。

(なら)いってもんを知らんやつが貧民街(ここ)に踏み込んでくるとは!」

仙娘(シェンニャン)。少し、下がっててくれ。ナサリアドゥ、相手は何人だ?」

「ドワーフが四人。人間の軍人が一人。子どもみたいな若造だ。(ボマラス)で武装してる」

「手加減はできないな」

 ナサリアドゥと【肝喰らい】は、どんどんと叩かれる扉を前にして、見慣れぬ格闘技の構えをとった。まるでしなやかな猛獣のような構えだ。

大いなる海(タマリ・エシェ・ン)に有りて理(・タマハト・マアル)を司る女神(=アタタヤ・ラハト)よ、我を許したまえ。女神の慈悲にすがりて、死せる魂の安寧を乞う」

 ナサリアドゥが小さな声で祈りの文言を唱える。

 その文言はどう聞いても穏当なものではなかった。


「待ってください、二人とも」

 ビブリンがはっきりとした声で言った。

「……静かにしてくれ、仙娘(シェンニャン)!」

「やり過ごせばよいのですよね? 私に任せてください」

「任せてくださいったって、あんたに何が──」

「初めての試みですが、上手くいくはずです」

 ビブリンは二人の肩に手をかけた。


 サウズンは酒場の粗末な扉に何回も体当たりすると、蝶番が外れかけているところを見計らって硬いブーツの蹴りを食らわせた。

 大きな音を立てて扉が倒れる。

 左手にランプ、右手に銃を掴んで、短い廊下を飛ぶように駆ける。

「海軍だ! 抵抗するな! こっちには(ボマラス)が──」

 走りこんだ部屋の中には──


 転がった椅子やテーブルの間に、場違いなほど美しい女性が一人、まったく動じずにたたずんでいた。


「あっ──えっ──あの?」

 サウズンは拍子抜けして、女性に向けた銃を慌てて下ろした。

「ええっと……あの、その? ご婦人、こんなところで何を?」

「人と待ち合わせをしておりました」と、女性が答える。

「こんな……こんな場所で、しかも夜にですか?」

「いけませんか?」

「いけなくはないですけど……」

「軍隊の人たちがお仕事を始めましたので、いったん、ここに避難したんです」

「ああー、それはどうも、ご迷惑を……」

 サウズンは思い出したように軍帽を取ろうとするが、両手がランプと銃でふさがっているのに気づき、きょろきょろしてランプを床に置き、ようやく軍帽を取って胸にあてた。

「ご婦人。よろしければ、お宅までお送りしますけども」

「ご親切にどうも。ですが、大丈夫です」

「あの、つかぬことをうかがいますが、怪しい者を見かけませんでしたか?」

「とおっしゃいますと」

「南方人の逃亡奴隷……なんて、見てませんかね」

 女性は一呼吸おいて、答えた。「いいえ」

「場所が場所ですので、お気をつけください」

「お気遣い、感謝します」

 サウズンはこのとてつもない美人をどこかで見たような気がしたが、強勢徴募のあおりをくらって廃屋に身を隠すことになった婦人への申し訳なさが勝り、速やかに違和感を忘れ去った。


 子どものような年齢の若い軍人が立ち去ったあと、ビブリンは無言で右手を宙へ差し出す。

 手の先の何もない空間がねじ曲がり、虚無と無限からなる最小の宇宙より、大きな物体を呼び出して具現化する。

 人間の男性──東洋人──【肝喰らい】だった。

 男はもんどりうって床に倒れこみ、激しくせき込んだ。

 その体や衣服には、霜が降りている。

「い──いま──のは──な──なん──」

 凍てついた真冬に放り出されていたかのように、歯の根が合わないほど震えている【肝喰らい】の目の前で、今度は南方人のナサリアドゥがねじ曲がった空間から呼び出され、宙へと放り出されて倒れこむ。

 まるで戯画のようにおかしな形で丸め込まれたナサリアドゥの体が一瞬にして元通りになった非現実的な現象を目の当たりにして、【肝喰らい】は絶句した。

「あ……が……が……」

 ナサリアドゥが白い息を吐く。こちらも体中が霜だらけで、まつ毛にも氷が張り、とめどなく涙を流していた。


「成功です」と、ビブリンが誇らしげに宣言した。

「ミュリエラ様に教わったのです。火は、生きものと同じく空気を呼吸する、と。先だってはそのことを勘案せず失敗してしまいましたが、今回は失敗を踏まえて、生きものを【道具箱】に収納するには必要十分な呼気と同時に収納すれば間違いないと踏みました。成功は明らかでした」

 だが、へたりこむ二人の男性の姿を見て、ビブリンは眉をひそめる。

「……どうしたことでしょう。健康が害されているように見えますが。大丈夫ですか?」

「凍てついていた……」と、【肝喰らい】がうめく。

「息をするたびに肺が凍りつくようだった。暗くて、上も下もない。地獄ってもんがあるとしたら、まさにそれだ」

「おれは、魔術を体感したのだ……!」と、ナサリアドゥは戦慄(わなな)いて顔を覆った。

「この世には、本当に魔術が存在するのだ。そして、魔術の創造者にして支配者、大いなる海(タマリ・エシェ・ン)に有りて理(・タマハト・マアル)を司る女神(=アタタヤ・ラハト)も。たとえわが身は母なる地へ帰還を果たせざるとも、わが子孫は必ずかの地へたどり着けると、確かな(しるし)を得た」


 異様な状態にある二人を前にして、ビブリンは考え込んでから、言った。

「おそらく、空気の熱に保護を与えなかったのが原因でしょう。空気にもともと含まれていた熱さが【道具箱】の無限の空間の中で放射し、凍てついた空気になってしまったのです。私の考えが足りませんでした。お詫びいたします」


「なんとも、どうも……かなわねえな、こりゃ」

 と、【肝喰らい】は床にへたりこみながら肩を落とす。

 そのまま、床の上で姿勢を正し、頭の上で手を組む奇妙な東洋風の礼で、ビブリンに対して床に頭をこすりつけるようにして、言った。


「……あんた、いや貴女を俺の女にしようなんて、身の程知らずもいいとこだった。助けていただき、お礼を申し上げる、書霊妙智仙娘シューリン・ミャオジー・シェンニャン幇主レーヴア・フォン・パンとして、海嘯娘々ハイシャオ・ニャンニャン様の使いである貴女に服することを、お許し願いたい……」

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