第51話
「主人はどこまで行っても男なんです」と、ジゼがミュリエラに愚痴をこぼす。
ここはチャリンド邸の居間。
主人のクロードは泊まりがけで川釣りに出かけている。
川は、伝統的に領土や領地の境目として用いられる地形である。
この由来のため、隣り合う土地の領主が川で「遊ぶ」ことによって集い、そこから釣りが社交の場になったのだという。
夫が留守で、娘は部屋に謹慎させられている今、ジゼにとってミュリエラがほぼ唯一の話し相手であった。
「あの人は娘の気持ちをちっともわかっておりません」
「アニエ嬢を可愛がっておられるように見えるがのう、ご主人は」
そう言ってミュリエラは目の前のケーキをフォークで崩し、口に運んだ。
バターの香りをふんだんに含んだスポンジに、たっぷり塗られた甘いクリーム。
どうやら料理人のシャルコの腕の冴えは菓子にまで及んでいるらしい。鼻に通るバターの香りは一瞬だけで、それを飲み込むと舌の奥で葡萄酒に似た甘みと酔いが蘇り、後に残るのはクリームのなめらかな味わいのみ。これを珈琲やお茶で洗い流すのである。小麦粉やバターや牛乳をどう扱えばこんな不思議な芸当ができるものやら、ミュリエラには想像もつかなかった。
「可愛がるのと理解するのとでは別でございます。そうでしょう、伯爵夫人様?」
ミュリエラは、ジゼからクロードがアニエを謹慎させた理由を聞いて苦笑した。
クロードは、アニエがノールドルストム子爵からわざと嫌われるつもりで無礼を働いたと思っているのだという。求婚を断るならば上品なやり方を覚えよ、という意味での叱責らしいのだ。
「では、ジゼ殿には、アニエ嬢の心中がお分かりでございますかや」
「少なくとも、男親よりわかっているつもりでございます」
ジゼはため息をつく。
「なぜあの時に限って、あんなことをしたのかは、わかりませんけれど……」
それはミュリエラにもよくわからない。
あの時──ミュリエラに面会しに来たノールドルストム子爵の前で、挨拶もせずアニエがこれ見よがしに通り過ぎた時、彼女の側にいたのはリリだけだ。
しかも、この間、廊下でリリを呼び止めて事の次第を聞き出そうとしたところ、彼女は目を丸くして「どうか、それをお尋ねにならないでください、そしてお尋ねになったことを誰にもおっしゃらぬようお勧めします」と言うのだった。
「……ですが、あの年頃の娘は、気づいてもらうためなら何でもするものですしね。それに、あの子もいま自分がどういう気持ちで、どうしてあんなことをしたのか、きっとわかっておりません」
「おや。ジゼ殿にも覚えがありますかや」
ミュリエラが冗談めかすと、ジゼは「ええ、まあ」と視線を落とした。
そして話題を変えるように言う。
「伯爵夫人様のお腰元も、お気をつけになったほうがよろしいですよ」
「ビブリンでございますかや。ご当家の従僕と出かけておりまするが」
「あら。お認めになりますの?」と、ジゼは意外そうな声を出した。
要は、二人の関係を認めるのかとジゼは言っている。
「まあ、なんと言いまするか……間違ったことは起きませぬよ」
起きようがない、と言った方が正確だろう。ビブリンは人間ではないのだから。
「ずいぶんとご信頼されておりますのね」
「それはもう、ひととおり教え込んでおりまするゆえ。先日はいささか危ない目に遭い申したようですじゃが、あれは二度と同じ間違いを犯さぬよう創り──いや、教えておりまする。あの者に限って、危険に巻き込まれるようなことはないと自信をもって申し上げられましょうぞ」
ビブリンは自身の状況をこの上もなく危険であると判断していた。
周囲の男たちは身じろぎせず、自分とリューメックの二人を取り囲んでいる。
そのたたずまいには一分の隙もない。
やがて、重苦しい雰囲気の中、リューメックが手に持ったジョッキを静かに降ろしながら言った。
「やれやれ、誤解というか聞き間違いだと思うんだけど、要するに──」
と、いきなりリューメックは陶製のジョッキを手近な男の頭に振り落とした。
薄手のジョッキが割れ、大麦酒が飛び散り、男が倒れる。
「ビブリン嬢! 逃げるんだ!」
叫びながらリューメックは酒場の扉に取りつき、内鍵を外そうとする。
が、次の瞬間、大勢の男たちに飛びかかられて、リューメックの伸ばした手は扉に届かず空をきる。
男の一人がリューメックの口と鼻をぼろ布で覆う。
「──ビブリン嬢! 早く! ここは俺──おれ──れが──」
押さえつけられてじたばたともがくリューメックは急に目を回し、その場にぐったりと横たわってしまった。
「英雄になりそこねたな、あんちゃん」
周囲に男たちのくぐもった笑い声が響く。
「それは」と、ビブリン。
「香料の一種でしょうか。彼に嗅がせることで効果を発揮したのですね。そのような劇的な効果を持つ物は見たことがありません。まるでミュリエラ様の魔法です。ぜひ、持ち帰ってミュリエラ様にお目にかけ──」
「興味があるなら、たっぷり味わわせてやるぜ!」
背後から男が手を回し、湿ったぼろ布をビブリンの顔に押し当てる。
ビブリンは人間の鼻と口を模した呼吸器から胸いっぱいに息を吸い込んだ。
吸って吐き、また吸って吐く。
湿ったぼろ布は、確かに一種の香料か薬品を染み込ませたものであり、蒸発した成分を吸い込ませることにより人を昏倒させられるらしかった。
ぼろ布を押し当てた男が一歩下がる。
ビブリンはまだ立っていた。
「素晴らしいです」と、ビブリンは感想を述べた。
「これは──酒精をさらに加工して精製した薬品ですね。何を反応させて精製するのでしょうか。緑礬油の気配がしますが──とにかく、素晴らしい。この世に酒精より魔力の変換効率の良い物質が存在するとは……。人に危害を加えるのに用いられるのは遺憾ですが」
目を輝かせて満足げに立っているビブリンを前に、男たちはあっけにとられる。
「おっけ油ってのは、食らったら寝ちまうもんだと思ってたが……」
ビブリンにぼろ布を押し当てた男が、手に持つぼろ布を自分で嗅いでみる。
男は速やかに気を失い、その場に倒れた。
「おっけ油? おっけ油というのですか、これは。“おっけ”とは、“転倒”の北方なまりですね。ですが、それは学術的な正式名称ではないように思えます」
男たちは明らかに戸惑っていた。そして、一人がゆっくりと口を開く。
「……あんた、何者なんだ……」
ビブリンは反射的に素性を話しかけたが、ここで主人の名を出すのは適切でない可能性に思い至り、ただ名乗るだけにした。
「私の名前はビブリン・ヴィステナスラヴア。わけあって探し物をしております。この連れの男性はリューメックさん。ただの労働者で、怪しい人ではありません。交渉の余地はありますか?」
男たちの中から背の低いドワーフが歩み出る。
片目が潰れ、顔の半分に火傷を負った男だった。
「胆の据わった姐さんだ。ただ者じゃないらしい……。いいだろう、話を聞こう。だが、分かってるだろうが、この稼業ってのは何事も慎重を期すモンでな。まず、さっきの質問に答えてもらう。【肝喰らい】の名をどこで聞いた?」
「知り合いの名です。そのような二つ名をお持ちの方でした」と、ビブリン。
「知り合い……だと……?」
男たちは顔を見合わせ、ひそひそと声を交わす。
「お前さんは、先代か先々代の知り合いなのか?」
「おっしゃる意味がよくわかりません。私が知っている【肝喰らい】と名乗る方は、ただ一人でした」
ドワーフは考え込む。「こっちもわけがわからん。だが、とにかく、場所は変えさせてもらう。それと、お前らが官憲の手先じゃねえと分かるまでは、命はないもんと考えとけ」
目の前のドワーフは、尋問のために自分たちをどこかへ連れ去るつもりなのだとビブリンは理解した。
「分かりました。抵抗はいたしません。ただ、ここを去る前にひとつお願いがあるのですが……」
「何だ?」
ビブリンは脇に倒れている男の手からぼろ布を取り、口と鼻に押し当て、思い切り薬品の蒸気を吸い込んだ。
「……ああ。残念です。揮発性の強い薬品なのですね。もうほとんど無くなっています。よろしければ、道中、ずっと吸い込んでいたかったのですが」
ドワーフは恐れ半分、呆れ半分といった表情でビブリンをまじまじと見た。
「あんた、マジで、何者なんだ」
読まなくてもいい作中のメーノン語の解説
pól 【動詞】転倒、転ぶ。 pólina は過去形
ám 【名詞】油、オイル




