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第50話

 チャリンド邸のミュリエラの部屋に、足つきの浴槽が運び込まれている。

 それだけではない。湿気や飛沫(しぶき)で壁や家具を傷めないよう、大きな布が四方八方に張られ、即席の浴室が作られている。

 布の宮殿の中央に座する浴槽の主は、ミュリエラではない。

 ビブリンだった。

 ミュリエラは、ビブリンが湯に浸かる浴槽の横で椅子に座り、石鹸の泡にまみれる裸の侍女を見つめていた。


「石鹸といえば臭うものと思うていたのじゃがのう……」

 この化学製品も、ミュリエラがこの時代に来て驚いた文明の利器の一つだ。

 千年前にも洗濯や入浴に用いる石鹸はあったが、獣脂と灰を混ぜて反応させた腐りやすい代物で、しかも高価であった。

 ミュリエラもかつてはその臭いを嫌って魔法で服や体の汚れを落とし、女たちにもその魔法をかけてやることで、ちょっとした路銀を稼いでいたものだ。

 現代の石鹸は、植物性の油を原料としているらしく、おまけに香料まで入っていて爽やかな匂いすらある。

 とはいえ、定期的な入浴は、いまだ富裕層の特権であった。

 なにしろ浴槽を運び込むのも、幕屋を張るのも、湯を沸かして地下階から二階まで運ぶのもすべて人力なのである。ミュリエラは汚穢(おわい)まみれで帰ってきたビブリンを洗うべく、メイドたちに頼み込み、銀貨まで握らせて入浴の手はずを整えた。


「感謝いたします。ミュリエラ様」と、ビブリン。

「礼には及ばぬ。糞だらけの召使いなど侍らせるわけにもいかぬでな」

「私は失敗しました」

「おぬしの話を聞く限り、そのようじゃなあ」

「単独調査は私の適するところではないのかもしれません」

「かもしれぬ」

「ミュリエラ様がお命じになった以上、私は務めを果たすつもりです。ですが次善の策として、やはりミュリエラ様ご自身による調査も含めて、他の手段を検討しておく必要があると思われます」

「いや、続けよ。この調査、おぬしが存分にやるがよい」

 ミュリエラの答えに、ビブリンは不思議そうに首をかしげる。

「理由をお伺いしてもしても?」

「……わらわも、()()()せねばと思うたゆえ」

 ビブリンにはその言葉が理解できなかったが、ひとまず話を進めることにした。

「では、何が拙かったのでしょうか? 私はただ、彼らの行動に興味を持ち、解釈を示しただけですが」

「目の前の出来事を観察し、情報を得て、見解を述べる──わらわがおぬしをそう創ったのじゃ、わが叡智の(たす)けとするためにな。しかしな、誰にでも斯様(かよう)な態度をとっていいとは限らぬのじゃよ」

「それでもチャリンド家の召使いたちと衝突は起きませんでしたが……」

「おぬしが客人たる伯爵夫人(グラフリン)の侍女だからじゃ。気を使われておるのよ。加えて、わらわの言いつけ通り、ここの召使いとは適切に距離を保っておろう? 言葉を交わすのも、必要な時のみではないか」

「では、どのようにすべきでしょう?」

「察する力を身に着ける──とでも言えばよいかの。人は誰しも、仮面を被って生きておる。社会にあって、その時その場で、建前を持ち、適切とされる役割を演じておるのじゃ。船荷を中抜きする港湾労働者(ブリッキュア)とて、面と向かい僻事(ひがごと)を指摘されて、心安らかでいられる者はおらぬよ。彼らが演じる役割を察して、それに応じた態度をこちらも取るべきなのじゃ」

「驚きました。社交界と同じです」

「さよう。人類社会の逃れえぬ宿命(さだめ)じゃ。わらわだけじゃぞ、おぬしがずけずけと真実を申しても、狼藉に及ばぬのはな」

 ビブリンを見るミュリエラの眼差しには慈しみがあった。

「お言葉ですが、ミュリエラ様。貴女様が【勇者】リアスタン殿との虚偽の婚姻関係を主張して、私が否定しますとミュリエラ様は私をガボゴボゲボベブベ……」

(かしら)のてっぺんから、よーっく、浸けて清めねばな!」


 すっかり汚れを洗い流したビブリンは、地下階へと降りた。

「おぬしからも礼を申しておくのじゃ」とは、ミュリエラの言である。

 メイドたちは対価として銀貨を得ているので感謝は述べるに値しないはずだが、人間社会はそう単純ではないらしい。ビブリンは学習していた。

 夜更けの地下階は、ちょうど夕食の後片付けが終わり、召使いたちがひと息ついたところだった。

「あ、ビブリンさん。お湯加減はどうでしたか?」

 地下階のホールにいたキリレが声をかける。

「大変よろしゅうございました。おかげで助かりました」と、ビブリン。

「いいんですよ。臨時収入になりましたし」

 この場合の「いいんですよ」は、言葉通りの意味ではないのだろう。

 夕食時の一番忙しい時に、浴槽一杯ぶんの湯をタライで二階まで運ぶ重労働を負わせ、対価が金銭だけで済みはしない。ビブリンが「感謝」の念を述べて初めて、「いい」ことになったのだ。


「おいおい、心付けをもらったのか? 外から水を汲んだのはこっちだってのに」

 ホールで同じくひと息ついていた従僕の男がぼやく。

 キリレは口をとがらせた。

「だって、手伝ってくれるって言ったのはあんたじゃない」

「そりゃあ、別嬪さんのためって聞いたからな」

 この従僕は、かねてよりビブリンと交友したがっていた男性使用人の一人だ。

 ビブリンの記憶によると、男の名はリューメックといった。彼はチャリンド家の男性使用人の中では珍しい人間族である。エルフは非力なので、上流階級の屋敷でも人間の男性を雇って力仕事を任せるのが常なのだ。

 その目的ゆえか、リューメックは背中の広いがっしりとした体格の青年だ。

「あなたにも感謝いたします、リューメックさん」

「いいってこと。できたら、今度一杯つきあってくれたら嬉しいんだけどな」

 ビブリンは少し考えてから、返事をした。「いいですよ」

「いや、気にしないよ。伯爵夫人(グラフリン)のお世話で忙し──え、今なんて?」

「おつきあいしますよと言いました」


 カールッドの下町の往来を夕暮れが朱で照らす中、リューメックは落ち着かなげに人を待っていた。

 やがて、雑踏の中から、ドレスに身を包んだ待ち人──チャリンド家に滞在中の客人、グリューデン伯爵夫人の侍女ビブリン・ヴィステナスラヴアが姿を現す。


「お待たせいたしました。リューメックさん」

「ちっとも待ってないよ。さあ、行こう」

 そう言うと、リューメックは右ひじを曲げて差し出した。ビブリンはそのしぐさを見つめていたが、納得したように声を出す。

「ああ、私は女性なのでした。エスコートされなければ」

 ビブリンはリューメックの腕に手を回した。


 案内されたのは、仕事帰りの労働者でにぎわう酒場の一つだった。

 リューメックが大麦酒(ビュール)を注文すると、ほとんど間をあけず巨大なジョッキが目の前に置かれる。「そんじゃ、乾杯」

 ビブリンはジョッキを一気に飲み干すが、やはり蒸留酒(スプリッタ)ではない普通の酒では、魔力の変換効率はすこぶる悪く感じる。

 と、目をテーブルの向こうにやると、リューメックが感嘆していた。

「すごいな……そんな風に飲む女の人は初めて見たよ」

 ビブリンはまたもや、自分が「適切な役割」を演じなかったことを知った。

「すみません。お気に召しませんでしたか」

「いや、いやいや。そんなことないって。ちょっとびっくりしただけ。いいんじゃないかな、大した飲みっぷりだよ」

 リューメックも負けじとジョッキを飲み干し、二杯目を注文する。

「さて、ビブリン嬢。なんで今日はつきあってくれる気になったのかな? 今までつれなかったのにさ」

 人間社会におけるコミュニケーションの技術を習得するため──という答えは、この場にはふさわしくないだろう。ミュリエラの教え通り、適切な態度を取らねばならなかった。

「……こういう場所には来たことがなかったので、お断りしていました。ですが、何事も経験と考え直したんです」

「育ちがいいんだね」

「かもしれません。創られ──いえ、生まれた時からミュリエラ様にはよくしていただいております」

 リューメックは目を丸くする。

「生まれた時から……だって? じゃ、伯爵家が一族まるごとお抱えしてるのか。さすがはウル称号の家柄だな……」

 二杯目のジョッキがテーブルに置かれる。ビブリンはそれもまた一気に飲み干そうとしたが、「適切でない」可能性に気づき、止めた。

「あらためて、今日はありがとうございました」

「ご婦人を助けるのは男の義務、そうだろ?」

 にっこりと笑うリューメックに対し、どのような反応を返せばよいかをビブリンは過去の経験から検索する。その結果、テルフェリ邸でアニエがノールドルストム子爵にとった行動と言葉を記憶から掘り起こし、実行した。

「閣下はお優しい方ですね」と、ビブリンは微笑んだ。

 この返事に対するリューメックの反応は想定外のものだった。

 顔を赤らめ、目を泳がせ、ビブリンの視線を避けようとする。

 ビブリンはリューメックの体に発汗を検知した。

「僕は閣下なんかじゃないよ……」

「失礼しました」

「参ったな、君が笑ったところを初めて見たもんだから」

「確かに。私も生まれて初めて笑ったかもしれません」

「ああ、ちくしょう。芝居みたいな台詞を言うんだな」

 リューメックは居心地が悪そうにジョッキの大麦酒(ビュール)をあおる。

 そして、振り切るように話題を変えた。

「……そもそも、なんで()()()を頭からかぶるはめになったんだい」

「探し物をしておりまして。その過程で失敗して、汚れた水路に落ちたんです」

「探し物? よければ、協力しようか。何を探してるんだ?」

 ビブリンは目の前の男に事情を話していいものか、素早く検討する。

 特に差しさわりとなる点は思い当たらなかった。

 リューメックは悪い男には見えないし、協力者は多いに越したことはない。

伯爵夫人(グラフリン)様のご知人の品物です。盗まれたのです」

「盗品かぁ……なるほどな。そりゃちょっと、難儀だね」

「どうすれば見つかるか、心当たりはありませんか?」

 リューメックは腕を組んで思案した。

「カールッドには故買屋も多いけど、表向きはもちろんそんな看板は出してない。古物商とか、本屋とか、そういう生業の店が副業でやってるのがほとんどなんだ。そしてもちろん、そんな顔は一見の客には絶対見せてくれない」

 そう言ってリューメックは声をひそめてビブリンに顔を寄せた。

「……この酒場だって、実はご禁制の品を扱ってるって噂がある。まあ、その程度の話、どこの店でもあるんだけどね」

「では、主人に交渉すれば、盗品の取り扱いについて情報を得られますか?」

「言っただろ。一見の客はお断りなんだ。下っ端でもいいから、その筋の構成員と繋がりがあればいいんだが……」

「お知り合いにはいらっしゃいませんか?」

 リューメックは肩をすくめた。

 大柄な彼が肩を落とすさまは、なかなか滑稽であった。

「そういう方面のコネがあるようなやつは、チャリンド家では雇ってくれないよ」

「それもそうですね」

 おのが家の叙爵を目指すクロードが、裏社会と通じる人間を雇ってスキャンダルの種をまくとは思えない。

「かといって、君もそんな知り合いがいるようには見えないね、ビブリン嬢」

「かつては見知った盗賊もおりました。正確には、私でなく(あるじ)のご友人ですが」

「へえ。伯爵夫人(グラフリン)が? 意外だな。じゃ、そいつに頼めないか」

「残念ながら、もうお亡くなりになっているでしょうね。遠い遠い昔のことです」

「ふうん……なんて奴なんだい?」リューメックはジョッキを取って口をつける。

 ビブリンは答えた。

「その方は【肝喰らい】オルソンド。または、大逆の賊徒と呼ばれた方でした」


 その途端、あたりの騒がしい酒場の気配が一変した。

 すべての会話や物音が止まり、人の動きさえ止まり、バーカウンターにいた店主に至っては、いつの間にか姿すら消している。

 異様な雰囲気に飲まれ、リューメックもジョッキを口につけたまま凍りつく。

 ビブリンは、周囲の客たちがいつのまにか入れ替わっていることに気づいた。

 おそらく、自分が盗品の売買を口にしたタイミングだ。

 いつものように“ビブリオティカ”の状態なら、周囲の状況の変化を感知できたかもしれない。だが、“ビブリン”である今は、感覚が「人間並み」になってしまうのだった。


 客と思っていた一人が酒場の扉に歩み寄り、内鍵をかけた。

 そして、低い声で言った。

「お嬢さん……今、【肝喰らい】って言ったか? その名を出したからにゃ、タダじゃ帰せんよ」

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