第49話
降りそそぐ朝のやわらかい日差し。
チャリンド家の食堂では、家族の面々とミュリエラが朝食をとっている。
いつもと唯一の違いは、アニエの席が空なことだった。
アニエは先だって、玄関で来客に挨拶もせず横切るというとんでもない無作法を働いてしまい、怒った父親のクロードから当分の謹慎を命じられている。
何かにつけて娘に甘いクロードだったが、こればかりは別だ。
子爵の口を通して無礼な振る舞いが世間に知られたら、彼女の人生は終わったも同然になる。クロードはひたすら気をもんでいたが、いまデミアルはそれどころではないことをミュリエラは知っている。
が、今の状態のクロードには何を伝えても無駄だろう。
今、アニエの部屋に入れるのは、お付きのメイドのリリだけである。
ミュリエラはこっそりと慰めに行けないかとリリに提案してみたが、彼女は首を振って「お気持ちはありがたいのですが、貴女様だからこそお会いになるべきではありません」と答えるのみだった。
ミュリエラは自室に戻りつつ、ため息をついた。
「……アニエ嬢の謹慎が解けぬうちは、召使いも解放されぬ。リリ殿の珈琲はしばらくお預けじゃな……」
『珈琲なら私が“ビブリン”になって淹れてさしあげますが』と、ビブリオティカ。
「うむ。辛抱できなくなれば頼む。じゃが、何であろうな。リリ殿の珈琲は普通とは何かが違うのじゃ」
『仮説として、彼女はゲストの体調を見抜き、その日の天気や気温も鑑み、味を微妙に変化させていると考えられます』
「識闘術の応用であろうか。おぬしをもってしても、観察を繰り返さねば解き明かせそうにないのう。じゃが……」
ミュリエラは椅子に座る。
「しばらくアニエ嬢の外出の付き添いをしないでよいのは好都合かもしれぬ。子爵家の白磁の器とやらを取り戻す時間ができそうじゃ」
白磁。
この特殊なセラミック技術は、ミュリエラの時代にはなかったものだ。
はじくと金属のような音がするこの材質は、チャリンド家でも食器類に用いられている。大きなものや、絵付けも含めたデザイン性の高い品は高価であるらしく、奪われた子爵家の「鉢」はそういったものらしい。
『ノールドルストム邸でミュリエラ様は、宝物の行方について“心当たりがある”とおっしゃいましたが、本当ですか?』
「ああ、あれか。出まかせじゃ」
『……え?』
「あの流れでは、そう申すしかあるまいて」
『では、どうなされるおつもりです?』
「なーに、案ずるに及ばぬ。わらわもそろそろ、いい加減この時代には慣れてきたつもりじゃ。冒険者ギルドがなくなっておるくらいじゃ、どうせ盗賊ギルドもなくなっておるのであろう。じゃが、この手の後ろ暗い話はいつの時代も行き着く先が決まっておるものよ」
『どこです?』
「カールッドの東、港の近くに貧民街がある。盗品はおそらくそちらへ流れる仕組みになっておる」
遠い昔、ミュリエラもリアスタンの徒党とともに暗黒街の住人と交渉したり情報を得たりしたものだ。その折には仲間の大盗賊【肝喰らい】オルソンドからその道の倣いを学んだ。
貴族の礼儀作法とは違い、社会のはみ出し者の流儀というものは、比較的時代の流れの影響を受けないものとミュリエラは読んでいた。
「さっそく、動くぞよ。まずはその筋の者どもの知己を得ねばならぬな」
ミュリエラは立ち上がり、衣装棚から外出用のドレスを物色し始めた。
『……ミュリエラ様。本当に貧民街へ足を踏み入れるのですか』
「ドラゴンの巣穴に入らずば、ドラゴンの卵は得られぬと昔から申すではないか」
『お忘れですか、ミュリエラ様。今の貴女は貴婦人なのですよ』
ドレスを選ぶミュリエラの手が止まる。
「……やはり、まずいか」
『まずいでしょうね。プロトコルの制約を受けるのはアニエ嬢だけではありません。道端に売春婦が立っているような場所へ伯爵夫人が赴くなどすれば、どんな噂が立てられますやら。名声を著しく損ない、修復は不可能になるかと』
「うむむ……社交界で名を売るのも窮屈になるものじゃな。しかし、他に方法はないのじゃぞ」
『ございますよ』
「なに?」
ミュリエラの首にかかっていたアクセサリー状態のビブリオティカが淡い光に包まれ、“ビブリン”へと顕現する。
ミュリエラの前に現れたビブリンは胸を叩き、言った。
「私が行けばいいのです」
ミュリエラはじっとビブリンを見つめた。
「……その意気や良し。じゃが、気持ちだけ受け取っておこうぞ」
「なぜです?」
「わらわが社会的地位ゆえに行けぬのは分かる。しかし、おぬしも同じであろう」
「失礼ですがミュリエラ様。私はこのチャリンド邸で使用人の業務に携わる傍ら、同輩の召使いたちともわずかながらも交流し、情報を得ています。それによると、実は労働者階級というものは、意外と女性でも貧民街へ足を踏み入れているものなのです」
「……そうなのか?」
「大半は親兄弟が住んでいるという理由ですが。上流階級における知見はミュリエラ様に敵うべくもありませんが、下々の者の事情は私の方が通じておりますよ」
「しかしなぁ……」ミュリエラは不安げだ。
目の前の“侍女”は、エルフ並みの美貌をきらめかせて、凛として立っている。
「……それでもおぬしの姿は女じゃ。しかも、見目を麗しく作ってしもうた」
こんなことになるとは露ほども思わず、燃え上がる創作の意欲にまかせて絶世の美女を造形してしまったのだ。この美しさに心を動かされない男は少ない。
クロードの言い回しを借りるなら、「大粒のサファイアを見せびらかしながら夜の小道を歩くようなもの」だ。
「心配しすぎですよ」
「あああ~。だから、おぬしの姿は男性の方が都合がよいと申したに……」
「ミュリエラ様。お忘れですか? 私も、魔王を倒した【勇者】リアスタンとその徒党とともに旅をした一員なのですよ」
ビブリンは、一度見たものを忘れない能力を持っている。
数多の死線を乗り越えたミュリエラたちの戦闘経験が自分の中にあると言っているのだろう。
ミュリエラは長い沈黙のあと、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「けして、無理をするでないぞ。おのが身を守ることを第一と心得よ」
翌日、ビブリンは労働者階級向けの服を着て、徒歩で街中へと出かけていった。
ミュリエラは温室でいつものように本を広げる。
ところが、どうにも気分が乗らない。
ガラスを通して降り注ぐ柔らかな陽光も、鼻孔をくすぐる清々とした緑の香りもそのままだし、手元の珈琲もリリが淹れるものには及ばないものの、まずまずの味であるにもかかわらずだ。
だが、本を読んでも、内容が頭に入っていないような錯覚に陥ってしまう。
ミュリエラはずっと永い間、読んだ本の知識をビブリオティカに蓄えさせていたことを思い出した。ビブリオティカという名の、自動で書き留めてくれるノートの存在にすっかり慣れ切っていたのである。
ひさかたぶりに味わう真の孤独。そこでミュリエラは唐突に思い至った。
自分はビブを心配していたのではない。
手放すことに不安を覚えていたのだ。
カールッドを貫くように流れる運河沿いに、倉庫が立ち並んでいる。
ビブリンはそこを歩いていた。
そこかしこで、大勢の男たちが荷物の陸揚げや船積みの作業を行っている。
あたりは荷物だらけだ。樽や箱、麻袋に入れられているのはまだいいほうで、ガラス製のランプや絵画といった、どう見ても保護が必要な品物までがらくたと一緒に山と積み上げられている。
ノールドルストム家の白磁の器があるとしたら、こういった物流の節点だろう。
足をつけずに処分したいなら、さっさと海外へ運び出してしまうに限る。
であれば、積み出し拠点から調べるのが効率的でないかというのがビブリンなりに考えて導き出した推論であった。
港湾労働者の一人が、輸入品の箱から酒瓶を取り出す。にやりと笑って、仲間へ放ってよこす。窃盗だった。荷物からアガリを抜き取り、懐へ入れているのだ。
その様子をじっと観察しているビブリンに男が気づく。
「おい。見てんじゃねえ。さっさと行きな」
「失礼しました。興味深かったもので」と、ビブリン。
「キョーミブカイだぁ?」
「港湾における荷揚げ作業には往々にしてそういった中抜き行為がつきものです。けれども、千年前とほとんど実態が同じ──つまり、荷主も船主も防止のための有効な手立てをいっこうに打てていないのが興味深いのです。物流の過程において、ある一定の割合で生じる損失と見込んで、あらかじめ輸送量に上乗せしているのでしょうか?」
男は険悪さをにじませながら歩み寄る。「ンめてンのか、テメー」
雰囲気を察して、仲間たちも数人、集まってきた。
「よく見りゃかわいこちゃんじゃねえか。こんな昼間ッから商売かよ」
「おい、マジでマブいスケじゃねーか」
「売女どもの元締めが入ってこれる場所じゃねえぜ、ここは。俺らの縄張りだ」
「ああ? んじゃ、ヤッちまっていいのか?」
彼らの表情に下卑た色がにじむ。
「もしかして」と、ビブリン。
「私に魅力を感じていらっしゃるのでしょうか。さっそく容姿が役に立ちましたね。やはり、男より女の方が有利です」
男たちはどっと笑った。「よくわかってるじゃねえか、ねえちゃん」
汗と垢にまみれた男が顔を突き出し、息を吐く。
ビブリンの人間を模した感覚器は、それを臭気と判定した。
「そんじゃあ、なかよくしようぜ、ねえちゃん」
「興味深い提案ですが、応じかねます。ミュリエラ様はご不快に思うでしょう」
「わかる言葉でしゃべれッつッてンだよ」
と、一人の男が腕を伸ばし、ビブリンを掴もうとした。
ビブリンはその手をおもむろに掴み、肩に背負うようにしてくるりと回り、思い切り体重をかけた。
鈍い音がして、男が悲鳴を上げた。
「なッ……この女ッ!!」
「リリ殿をまねて骨折か脱臼を狙ったのですが……肩の捻挫に留まったのですね。やはり、識闘術の修得には繰り返しの観察が必要ですか」
「ッッけんなテメー!!」
複数の男たちが一斉にビブリンへ押し寄せる。
──おのが身を守ることを第一と心得よ。
ミュリエラからの命令に従い、ビブリンはすみやかに逃走した。
「おい、逃げんなコラァッ!!」
入り組んだ倉庫街の小道は狭く、水路まで通っている。
ビブリンは走りながら、なぜ交渉がうまくいかなかったのかを検証する。
彼らの経済活動についての興味を示し、会話の糸口とした。
美しい女性として、男性からの奉仕の意思も確認した。
なのに敵意を向けられ、攻撃を加えられそうになったので反撃に及ばざるを得なかった。
いまいち、何が原因だったのかわからない。
どうやら実地の活動ではまだまだミュリエラに敵わないとビブリンは結論した。
と、小道の向こうからも港湾労働者の男たちが走ってくるのが見えた。
ここは彼らの縄張りなのだ。土地勘もあるのだろう。
水路に沿った分かれ道があったので、ビブリンはそこを曲がることにした。
「やったぜ! あそこは行き止まりだ! たっぷり可愛がって──」
男たちが道を曲がると、そこにあるのは行き止まりと、水路に下水を垂れ流す土管だけだった。
彼らは戸惑いを隠さない。周りは倉庫の建物の高い壁がそびえるばかりで、身を隠す場所もないのだ。「……あの女、どこに行きやがったンだ?」
濁り切った水面に、ちょうど小石を落としたような波紋が広がっていることに気を留める者は皆無だった。
アクセサリーの状態となった“ビブリオティカ”が、ヘドロの堆積する水路の底で“ビブリン”へと姿を戻す。汚物と腐った水にまぎれて、ビブリンは川底を泳ぎ、その場を後にした。
船底整備を終えてカールッド港に停泊中の快速巡航艦リアスタン号の船首で、何やらしなびた布袋のようなものが竜骨に引っかかるのを見ていたサウズン海尉心得は、それが人間の女性の体躯であることに気づいて飛び上がった。
「くそっ! どうして俺が当番の時ばっかり」
あわてて人を集め、回収にかかる。
網で絡めとって引き上げてみると、労働者階級の身なりの若い女だった。汚物にまみれているせいでよくわからないが、かなりの美人に見える。
顔を覗き込んでいたサウズンだったが、女が突然、目を見開いたので、仰天してひっくり返ってしまった。
「うわっ!!」
ビブリンは立ち上がり、言った。
「ありがとうございます。お手数をおかけしました」
絶句するサウズンと水兵たちを置いて、すたすたと歩いて下船した。
夕刻のチャリンド邸。
通用口のノックに応えてメイドのキリレがドアを開けると、そこには濡れそぼって悪臭を放つ伯爵夫人の侍女が立っていた。
「……ビブリンさん!? どうしちゃったんですか!?」
「情報収集に失敗したのです。次はもっとうまくやりますよ」
読まなくてもいい作中のメーノン語の解説
bliqqh 【名詞】波止場、船渠、ドック
bliqqhua 【名詞】港湾労働者、沖仲仕。波止場 bliqqh に操作者や動作を表す接尾辞 -vua がついたもの




