第45話
風の吹きつける割れたガラス窓を前にして、ソヴリネは呆然とした。
土が散乱し、祖母の撫子が床に転がっている。見事な大輪の花はちぎれ、頭を落としてしまっている。
この光景を見て、ソヴリネは大粒の涙をこぼした。
「私のせいだわ。私が飾ろうなんて言い出したから」
数少ないノールドルストム家の宝であった白磁の器。
それを失ったこと以上に、祖母の花が傷つけられたのが何よりも悲しかった。
泣き崩れるソヴリネに祖母のイゼシュラは優しく声をかける。
「あなたのせいじゃないのよ、ソヴリネ。器は残念だけど、花はいつか落ちるものなのだから。撫子はふつう二週間もすれば花が枯れてしまうはずだけど、この子はもう三週間も──」
そこまで言ってイゼシュラは咳き込んだ。
ソヴリネがあわてて祖母のそばに寄り、背中をさする。
「風が吹き込んできて、体を冷やしたせいかしら。ちょっと休めばよくなるわ」
落ちた撫子の花を取り戻したがっているかのように、イゼシュラは例の不思議な植木鉢を使ったボン・サーの製作に邁進した。
そして、ことごとく、成果を出す。
最初は喜んでいたソヴリネだったが、ボン・サーの数が増えていくにつれ、祖母の健康もみるみるうちに損なわれていくのを見て、表情を変える。
まるで、木に命を吸い取られているかのようだ。
「──お祖母様、さすがにおかしいですわ。お体をいたわってください!」
「季節の変わり目というのはこういうものよ……そのうちよくなるわ」
「いいえ、お休みください! 花の世話は私がしますから!」
なかば無理やりベッドに押し込められたイゼシュラは、速やかに眠りに落ちた。
その様子はほとんど昏倒に近かった。
ソヴリネは眠る祖母の顔を見た。口を軽く開け、寝息もたてずにぐったりと動かなくなっている祖母の姿に軽いショックを覚える。
「……こんなに、老いていらっしゃったかしら……」
盗難をきっかけにイゼシュラが園芸にのめりこみ、体調を崩したのだと考えると、ソヴリネは立て続けの不運がますます自分のせいに思えてきて悲しくなった。
だが、くよくよしてはいられない。
ソヴリネはメイドに祖母の看病を命じると、家内の雑事を片づけにかかる。
兄が勤務から帰ってくるまであと数日。
祖母が倒れた今、子爵家の命運はソヴリネの小さな肩にかかっているのだ。
邸内の異変は、祖母の病にとどまらなかった。
まず、家中ではイゼシュラに次ぐ年配者である執事の様子がおかしくなった。
夜、居間で少額の請求書の束に目を通していたソヴリネは、部屋を退出していく執事の足元がふらつき、戸口に肩を打ちつけたのを見た。
「ウード、待って。調子が悪いの?」
ソヴリネは執事の名を呼ぶ。
「なんでもございません、お嬢様。なんでもございませんよ」と、執事のウード。
「足に力が入っていないように見えたわ。熱でもあるの?」
「ございません、お嬢様。……ああ、そうですね、わたくしめも大奥様のご容態が気にかかりまして、ついふらついてしまったようです」
人間男性の執事は、あくまで健康には差しさわりないと言い張る。
ソヴリネもその気持ちは理解できた。
彼ら使用人も申し出れば休養を取ることができるのだが、休むとその日の給金が出なくなってしまうのだ。そのため、体調が悪くてもそれを隠すことがある。
「ウード。……お願いよ。お祖母様を心配するのだったら、あなたも休みなさい。いまこの家で病を流行らせるわけにはいかないのよ」
そう言うソヴリネも、体にかすかな気だるさを覚えていることに気がついた。
「それでは、お言葉に甘えまして、今夜はご家族さまより早めに下がらせていただこうかと……」
「そうしてちょうだい、ウード。朝になっても体調が戻らないようだったら、素直に申し出ること。いいわね?」
一礼して退出する執事を見送ったソヴリネは、ただひとり残った居間で、か細い蝋燭の光に照らされながら、言いようのない不安に身が包まれるのを感じた。
「……どうなってしまったの、この家は?」
晩春から初夏にかけて輝きを増す太陽がチャリンド邸に活気を降らせる。
その温室は、いまや、内なる無限の博覧会場であった。
ここには、グリューデン伯爵夫人ミュリエラが「各地から取り寄せ、また手塩にかけた」と称されるボン・サーの数々が陳列され、まるで小さなミニチュアの森が出現したかのような有り様となっている。
ボン・サー趣味の総本山たるこの場所は、そのあるじの称号と掛けて、趣味人の間で次のような名称を捧げられるに至った。
──「碧森の間」。
あるいは、通人の符丁としてただ単に「お部屋」と呼びならわされるこのガラス張りの神殿には、今日も今日とて、面倒な伝手を頼ってここにたどり着き、手持ちの鉢植えに伯爵夫人のお墨付きを貰おうとする貴族の姿がある。
「おお、これは斬新ですのう。岩の上から山査子が生えておりまする」
「お分かりですか、伯爵夫人様。このたたずまいの良さが……」
「うむうむ、分かりますぞえ。そう、まるで、高い岩山の頂に誇り高く立っているような……この品を部屋に置いているだけで、清涼なる山の空気が流れ込んでくる気分になりますですじゃ」
「……! ならばぜひとも……!」
「大きさ、良し。枝ぶり、良し。自然の一部を切り取ってきたかのような趣、まさしくボン・サーと申せましょう。この品に欠けておるのはグリューデンの印章だけですじゃな。ひと鉢、見つくろってさしあげたいと存ずるが、如何ですかや」
「あ、ありがとうございます……!」
このやり取りを温室の扉の外で聞いたビブリンが、同じく扉の外で待機していた貴族の従者に鉢の引き渡しの次第を伝え始める。
そして、声をひそめて告げるのだ──「つい先日、同じ大きさの鉢をお引き取りになったグラフェアノル男爵は三十リブレンを謝礼にお出しくださいました」。
これこそ、ミュリエラがついに手に入れた「定収入」であった。
貴族社会においては「商行為」は恥ずべきことだが、その代替として、「謝礼」「礼金」という形で現金がやり取りされるのである。そして、その額の通告も当人たちは関わらず、召使いが代理人として行う。
こうすることで、貴族たちは手を汚さずにものの売り買いができる。
三十リブレンという金額は労働者階級にとっては年収に相当する額だが、富裕層にとってはちょっとした趣味に費やす小遣い程度でしかない。
謝礼を渋る貴族はいない。
渋ろうものなら、「あそこの家の誰それは感謝の仕方も知らない無作法者だ」と噂を立てられ、社会的に殺されてしまうのである。
だいたい、三十リブレンていどで手に入れた鉢にボン・サーを植えれば、その価値は数百リブレンをくだらない代物に化けるのだから、渋る道理がない。
ましてや、伯爵夫人から格別の賞賛を受け、「お部屋」に一定期間、飾られる栄に浴したともなれば、その価値は金銭では表せないのであった。
これまでも社交の場でのギャンブルで、ミュリエラはささやかに魔法を「悪用」して小遣いを稼ぐ程度はしていたが、それで大きく稼いでしまっては悪名ばかりか恨みも買ってしまう。その点、社交界でも認められた高尚な趣味の「指導料」は、どこに出しても恥ずかしくない潔白な「実入り」だ。
ミュリエラがこの「販売業」──かくも貴族にあるまじき下品な言葉は万が一にも口走らないよう細心の注意を払っているが──を始めたとき、グリューデン印の植木鉢の礼金の額は十リブレンであった。その相場は日々、上がってきている。
やがて、ほどなくして、ミュリエラはチャリンド家からの援助なしでルドラルフ夫人にいくつかドレスを発注できるほどの財力を獲得するに至った。
そればかりか、いずれ経済的に独立して、小さいながらもカールッドに自宅を構えることも視野に入ってくるだろう。
これをそれとなくクロードに伝えたところ、チャリンド家の主人は飛び上がり、ミュリエラを引き留めにかかった。
「わたくしどものもてなしに、ご不満でもおありでございましたか!?」
と、クロード・チャリンドは狼狽の色をあらわにする。
予想以上の反応に、ミュリエラはあわてて彼をなだめた。
「いや、いや、そういうわけではないのじゃ、クロード殿。いつまでも食客に甘んじておっても、ご迷惑かもしれぬと思うてのう」
「迷惑などと、とんでもない。高名なるお客様にご逗留いただいているのですから、これ以上の名誉はありませんよ。アニエも寂しがります。どうか、ご自宅と思ってご滞在ください」
もちろん、ミュリエラにとって、この答えは想定済みだ。
単に、確認したかっただけだ。
今や、チャリンド邸の温室は、カールッド最先端の社交場なのである。
我が家の叙爵を狙うクロードにとって、ここに集う貴族たちとのコネクションは純然たる「資産」であった。その中心に座するグリューデン伯爵夫人は、彼にとって特別な切り札になりつつある。
「クロード殿に歓迎されておる限り、わらわは当家を辞するつもりはござらぬよ。なにより、シャルコ殿の膳は失いがたいゆえ」
この言葉を聞いてクロードは胸をなでおろす。「料理人の給金を上げてやらねばなりませんな」
一、二か月前まで身元不明の居候であった自分を思い起こし、ミュリエラはささやかな感慨を覚えた。
安堵して微笑むチャリンド家の主人に、ミュリエラは切り出した。
「……して、クロード殿。じつは、今日はこれからもう一件、貴人を迎える約束がございましてのう」
「ほう。初めて当館をご来訪なさる方でしょうか」
「うーむ、初めてとも言えるが、初めてでないとも言えまする」
「どなた様ですかな?」
ミュリエラは来訪者の名を告げた。
その名を聞いて、クロードはふたたび仰天した。
ひとりの貴族の男が大またでチャリンド邸の庭を横切り、扉の前に立った。
ため息をつく。庭も、扉も、すべてが彼にとって見覚えのあるものだ。
呼吸を整えて扉をノックしようとするが、手が止まってしまい、逡巡する。
が、意を決して叩き金を握り、二回、それを打ちつけた。
扉が開き、チャリンド家のエルフの執事、シャタルが恭しく顔を覗かせる。
男が名刺を差し出し「伯爵夫人とお約束が」と告げる。
シャタルは名刺を受け取ると、背の高いその男の顔を見上げた。
そして、言った。
「ノールドルストム子爵、デミアルさま。お待ち申し上げておりました」
読まなくてもいい作中のメーノン語の解説
olihalwen 【名詞】セイヨウサンザシ
libr 【名詞】メーノン王国の通貨単位。リブル。複数形 -en でリブレン。言葉そのものは千年前から変わらないが、価値は変動している。作中において、五千リブレンは千年前ならば一生遊んで暮らせる額だったが、「現代」では貴族の平均年収にも満たない。




