第44話
カールッド港に停泊中の快速巡航艦リアスタン号に漂着した死体の第一発見者は、当直勤務のサウズン海尉心得であった。
初夏に向かって気温が高くなりつつあるこの季節、夜間との温度差によって海霧の発生確率が高くなるものである。朝ぼらけの弱い陽光が河口を照らす中、水面を覆う朝霧をかき分け、死んだ男の体がゆっくりと船腹に流れ着き、船体にこびりついたフジツボに引っかかって止まる。
ただよう死体をじっと見つめていたサウズンは、やっかい者が引っかかったのを見届けて悪態をついた。「くそっ、面倒くさいな」
明け方の港に水死体など珍しくもない。
酔漢が川に落ちて溺れ死に、下流の岸に流れ着くのはよくあることなのだ。
しかし通例上、死体の処理は漂着地の管轄となる。あと数刻もすれば当直明けのサウズンとしては、余計なうえに不気味な仕事が増えてしまったに過ぎない。
邪魔者を引き上げるべく、海尉心得の少年は人手を集めに踵を返した。
網で絡み取られ、吊り上げられていく死体。
報告を受けたデミアル・ローム・ノールドルストム海尉は、甲板で死体の収容作業を見守った。
犠牲者は黒を基調とした服装で、そこそこ良い身なりをしている。
貴族ではないが、中流階級の商人といったところだろうか。
男性で、歳は三十過ぎか、四十。
ざっと見たところ外傷はない。ありきたりだが、やはり酔っぱらって橋から落ち、溺れ死んだ可能性が高いように思えた。
サウズンの指揮で網から外され、甲板に突っ伏した死体をまさぐっていた水兵が、そのポケットから袋を取り出す。
「うひょお、こいつ、持ってやがる」
水兵が空に袋を放り上げる。コインがかち合う音がした。
「おい、ちょろまかすなよ。遺品はぜんぶ記録して保管するんだからな」
サウズンに釘を刺されて、水兵はしぶしぶ袋を渡した。
中を開けると、数枚の金貨が入っている。
見慣れないデザインだった。
「なんだ、これ……」
「エンクレディオス金貨だ」と、デミアルが横から口を出す。
「エンクレ……なんですって、海尉殿?」
「前王朝で植民地の金山の開発を記念して発行された金貨だ。エンクレディオス朝の治世の永きを願う文言が入ってるだろう。発行直後に、現在のボナクレオン朝に変わったので、市井への流通は差し止められたんだ」
「なんでそんなものがここに?」
「価値は通常のリブル金貨と変わらないので、今でも王室からの支払いや報奨金でエンクレディオス金貨が用いられることがある」
「ええっ、じゃあ、王室御用達の商人ってことですか?」サウズンは仰天した。
「さあな。褒美で授かった貴族が支払いに使って、ここに収まったのかもしれん」
サウズンとデミアルが会話する横で、突っ伏した死体が仰向けに転がされる。
その顔を見て、ドワーフの砲手長ロウガムが声を上げた。
「おい、こりゃなんてこった。ゼッドじゃねえか」
「知ってるのか、ロウガム?」と、サウズン。
「へえ。まあ、ちっと、その筋では知られたヤツでしてね」
「友人か?」
サウズンの質問にロウガムは顔をしかめ、手を振って答える。
「馬鹿ぁ言っちゃいけませんや。こいつぁ筋モンで、ペテン野郎ですよ。あっしみたいなカタギと一緒にされちゃあ、困りますぜ」
少し前にイカサマ賭博で懲罰を食らった張本人の弁を、サウズンは無視した。
「何をやってた奴なんだ?」
「まあ、舌先三寸のサギですわな。身分をデッチあげるのと、人をおだてるのだけは巧いもんでした。そのくせ、商材の仕入れはトーシロも同然。だもんでいつまでたっても親分筋に使われる一方で、這い上がれねえ。下っ端のチンピラでさ」
「それにしちゃ着てるものが立派だな。金貨も気になる」
「ですなぁ。この野郎、めかしこんで、獲物をおえら方の屋敷にでも定めたかな。で、がらくた売りつけて金貨をせしめてから、召使いの耳長どもに叩っ殺されて、川に捨てられたんじゃないですかい」
「お前たちドワーフの、そのエルフに対する偏見は何なんだ……」
屋敷と聞いて、デミアルは実家で待つ妹と祖母を思い出した。
妹のソヴリネはああ見えてしっかりしているので、むざむざ詐欺師を家に上がり込ませはしないだろう。
なにより、我が家の金庫にはエンクレディオス金貨など、残っていない。
デミアルはサウズンに、死体の引き上げと保全を済ませたら、当局への引き渡しと手続きは法律に強い次の当直のデムケンに任せるよう助言し、士官室へ戻った。
ノールドルストム邸では、奇妙な鉢に植えられた撫子が日に日に草花とは言い難い風格を備えていった。
あの黒い服の商人は、朝と晩に一滴ずつ薬を落とすよう指示していったのだが、一週間もしないうちにガラス瓶は空となる。瓶自体が小さいうえ、もともとあまり中身も入っていなかったのだ。
「ああ、試供品とはこういう意味ですわね」
と、ソヴリネは空になった瓶を振る。
──ご利用の継続をお望みでしたら、リブル金貨をご用意ください……。
そんなところなのだろう。
だが確かに、効果は認めざるを得ない。
ソヴリネの目の前の撫子は、もはや撫子と呼んでよいのかもわからない代物へと変貌している。
茎はすっかり幹と呼んでさしつかえない段階になっており、それどころか年月を経た老木のように曲がりくねり、表面は枯れて白く、まるで骨のようだ。
こんな有り様なのに、葉は青々と茂り、花も瑞々しさを保ったままであった。
「驚いたわねぇ。確かに、これはちょっとおもしろいわ」
と、イゼシュラが以前とは似ても似つかぬ姿に変わった自作の花を眺めて言う。
「これがボン・サーというものなのかしら、お祖母様」
「かもしれないわね。撫子の大きな木なんて聞いたこともないけど。グリューデン伯爵夫人様にご検分いただいて、お墨付きを頂きましょうか」
「でも……」ソヴリネは口ごもる。ミュリエラが逗留するチャリンド家、すなわち旧ノールドルストム邸の敷居をまたぐのはいかにも屈辱だ。
しばし黙り込んだソヴリネは、撫子の飾られていた居間の窓辺に目をやった。
「窓に飾りましょう、お祖母様。うちにもこんな立派なボン・サーがあるのだと、世間に示してやるのです。評判を先に高めてしまえば、ミュリエラ様の方からご興味を持って我が家にやってきますわ」
ソヴリネとイゼシュラは、黒づくめの商人の置いていった奇妙な鉢から撫子を取り出し、家に伝わるとっておきの白磁の器に植え替えた。
これは、ノールドルストム家に残された数少ない貴重品の一つなのである。
白く枯れた木肌をさらす撫子と、大ぶりな朱色の花。
そして、滑らかな乳白色の白磁の輝き。
それらが混然一体となり、目を見張るような気品を発している。
「すごいですわ、お祖母様!」
ソヴリネが窓辺に飾られた宝物にはしゃぐ。
「なんだかやる気が出てきたわね。あの魔法の鉢に、今度は躑躅を植えてみようかしら」と、イゼシュラ。
「でも、お祖母様。水薬はもうございませんことよ」
「園芸は挑戦と後悔の繰り返しと言ったでしょう、ソヴリネ。私にだって園芸家としての矜持があるわ。あの水薬の成分を解き明かしてやるつもりよ。匂いがしないあたり、何かの水溶性の薬品を混ぜたものじゃないかしら」
久しぶりにやりがいのある課題を与えられ目を輝かせる祖母を見て、ソヴリネは微笑んだ。
「そうですわね。考えてみれば、お祖母様の腕前でミュリエラ様をあっと驚かせるのも一興ですわ。あの商人が戻ってきて高い値段を吹っ掛けてきても、必要ないと突っぱねられますし」
イゼシュラの挑戦は驚くほどあっさりと成功した。
ピンク色の鮮やかな躑躅の花はそのままに、茎だけみるみるうちに太く変化し、ソヴリネの手首ほどの直径となる。
「……いったい、どうやったらこうなりますの?」
祖母の成功に、ソヴリネは喜ぶというより呆れてしまった。
「硝石を少し水に溶かしてみたのよ」イゼシュラが答えた。
「肥料にはよく使われる定番だから。おかしいわねえ。学舎でわざわざ研究するようなものかしら」
「文弱の徒ごときが束になっても、われらが庭園の女王たるノールドルストム子爵未亡人の足元にも及ばないということでございますわ」
と、ソヴリネは自分の手柄のように勝ち誇った。
「園芸家としては」と、イゼシュラ。
「こうまで巧くいってしまっては、なにが良くてなにが悪かったのか、逆にはっきりしてなくて、あまり上達した気がしないのよねぇ」
首をかしげる祖母をよそに、ソヴリネは嬉しそうに胸を張る。
「ともかく、あの商人とは良い交渉材料ができましたわ。水薬はもう結構、試供品の鉢だけ頂いておきます──そう言われたあの男が面食らうのを想像したら、もう今から可笑しくてたまりませんこと」
ソヴリネの期待と思惑は外れた。
鉢と水薬を置いていった黒づくめの商人は、それから二度と、ノールドルストム家に現れることがなかったのである。
それだけではなかった。
おそらく金貨に相当すると思われる水薬の対価の支払いを免れた代わりに、ノールドルストム家にはちょっとした財政上の打撃が加えられることとなった。
白昼堂々、居間のガラス窓が叩き割られ、撫子を引っこ抜かれた白磁の器が盗難に遭ってしまったのだ。
読まなくてもいい作中のメーノン語の解説
shak 【名詞】糞、うんち。物質 shakk と語源を同じくする。罵倒の言葉にもなる
athála 【名詞】アザレア。ツツジ科の花
iltal 【名詞】硝石




