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第39話

 切り立った白い崖に波が打ち寄せる。

 その崖の上で、リリは一人のエルフの女性を追い詰めていた。

 エルフは全身が傷だらけで、血も滴っている。対するリリはほぼ無傷で、錐のように細身のナイフを構え、微動だにしない。


「こんなことしておいて何だけど、ハイリア」

 声を出しても、リリの体勢はまったく崩れない。

「私はあなたを殺したくない」

 ハイリアと呼ばれたエルフの女性が応える。

「でも、私を倒せるのは姉さんだけ。だから、黒の森(ズワニューデン)は姉さんを派遣した。そして黒の森(ズワニューデン)も、種族の掟に逆らえないからそうした」

「ただのメイドのあなたが企てに加担できるはずない」

「根づきしものの連帯責任。そうでしょ?」そう言ってハイリアは首を振った。

 唇を噛むリリ。

「……姉さんに勝てたらどこまでも逃げきってやるつもりだった。でも、だめね。やっぱり姉さんは最強。抵抗するだけムダだった」

 リリは手からナイフを落とし、構えを解く。

「やめた。……もうやめるわ。姉妹で殺しあうなんて、正気じゃない。 種族の掟なんて、糞くらえよ。ハイリア、逃げて。あなたは死んだって報告するから」

 この言葉に、ハイリアは悲しそうに応える。

「バレるに決まってる。そうしたら姉さんが危ない。私が死ぬか、姉さんが死ぬか、どっちかしかないんだってば」

 打ち寄せる波の音が聞こえる。

 海から吹く潮風が強まる。

「……お願いがあるの、姉さん。私のお嬢様を守ってあげて」

「お嬢様?」

「過激派はあの子の命も狙うでしょう、唯一の生き証人だもの。生まれた時から見守ってきたあの子が死ぬなんて、耐えられない。エルフ族の名誉を守るためなら、なんだってする連中よ」

「一緒に守ればいい」と、リリ。

「ハイリア、あなたはその子を守りなさい。そして私があなたを守る」

「……ありがとう、姉さん。せめてものお礼よ」

 ハイリアは崖を背後に、後ずさった。

「ハイリア。やめなさい」

「何をするか意識の流れ(イスラストリアミィ)でわかっちゃうんだから、すごいよね」

「やめて。お願い」

「本当に、いい子なの。誇り高いけど、優しくて。頭もよくて。守ってあげてね」

「だめ、だめだめだめ。止まって。ハイリア、戻りなさい!」

「さよなら、姉さん」

 リリはたまらず駆け出した。

 ハイリアの体が宙を舞う。

 リリは幼いころ、姉妹だけで使っていた妹の母名を叫んだ。

「──アニエ!」


 目が覚める。


 頭がずきずきと痛む。

 昔の記憶を夢に見た。ここが故郷だからだろうか。

 リリは縄を編み込んだ寝網(ウェンリューム)から身を起こす。

 起きても仕える主人のことを考えないでよいのは久しぶりだった。

 朝日の差し込む窓に近寄って外を眺める。

 樹屋(ウデョーフェム)から見渡す光景は、幼いころの記憶とは違っている。だが、同じものだ。

 深い森の中にぽっかりと開けた空き地の真ん中に作られた井戸と、その周りに固まる炊事場。様々な大きさの家屋。さらに、この集落地を取り囲む木々に取りつくように設置された樹家の数々。

 これがリリの種名(クノルペンナーン)の地、黒の森(ズワニューデン)だった。


 身づくろいをして水を汲みに井戸へ近づくと、伯爵夫人(グラフリン)が侍女のビブリンをお供に歩き回り、エルフの同輩たちと話をしているところだった。

 近寄って挨拶する。「お早うございます、伯爵夫人(グラフリン)様」

「おお、リリ殿。よい朝じゃな。ふるさとでの寝心地はいかがであったか」

「夢見は良くありませんでしたが、疲れは取れました」

「それは重畳。わらわは森の香気ですっかりよい目覚めであった」

 ろくな宿泊施設もないというのに、文句ひとつ言わないミュリエラにリリは素直に感心した。

「そうはおっしゃっても、寝網は不慣れだったでしょう」

「いや、いや。慣れておるでな」


 ──慣れている?

 寝網はエルフと船乗りくらいしか使わない寝具である。

 その船乗りでさえ、この習慣をエルフから取り入れたのはここ百年のことだ。

 船旅に慣れているという意味だろうか? いや、貴婦人ともなれば船旅といえどベッドを備えた船室に案内されるはずだ。寝網に揺られるなどありえない。


「それにしても、エルフの装束というのは、いつ見ても細身じゃのう」

 伯爵夫人(グラフリン)はリリの出で立ちを眺めて感想を漏らす。

 リリは黒の森(ズワニューデン)にたどり着いてからすぐ、エルフの民族衣装に着替えていた。

 手足の肌を覆う袖とズボンに、色調を合わせた短衣。葉や枝にひっかかりにくく、森の中で動きやすいデザインになっている。

「さすがに森では人間族のスカートは不便ですから」

「じゃのう。わらわも樹屋によじ登る必要があれば、服をお借りするやもしれぬ」


 伯爵夫人(グラフリン)はつくづく奇妙な人物だ。

 エルフの名の風習を知っているかと思えば、珈琲(ムコウヘン)を口にできないと知らない。

 印章指輪(テールヤクリン)を持つ身分なのに、自分たちのような召使いをいたわってやまない。

 市場でドワーフのイカサマ師から銀貨を巻き上げていたことから、一流の詐欺師ではと怪しんだときもあった。だが、その一方で、金を持っていることを無警戒に酒場で披露して、みすみす追いはぎを招くような真似をする。

 驚いたのは、駅馬車の上で奇妙なポーズを組んで瞑想していた時だった。頭から下腹部にかけての体幹にそって著しい識覚(イスラストリアミィ)の交流と輝きが見てとれた。あんな風に体と意識の操作ができるのは、熟達した識闘術(フィングリン)の使い手だけだ。と、思えば、初めて識闘術(フィングリン)を目にしたようなことを言いもする。

 まったくもってちぐはぐだ。

 今にしても、男装に近いエルフの装束を「借りる」などと言い出しているではないか。人間族の貴婦人からは絶対に出ない発想だ。


 伯爵夫人(グラフリン)の侍女、ビブリンも彼女について奇妙な事を言っていた。

 仕えて三百年だか、いや千年だか。まったく馬鹿げている。

 言っていることがまるで、さいきん上流階級で流行っているという怪しげな心霊術師とか、泥を黄金に変えると吹聴してパトロンから援助をせびる錬金術師とか、そういう連中と一緒だ。


 もし、彼女が貴族の身分を騙る詐欺師だったのなら。

 もし、アニエを害する意図があるのなら。

 リリはためらいなく彼女の背後に近づき、その首を革紐で締め上げるだろう。


 しかし、今のところ、彼女のアニエへの真心のこもった態度は誠実そのもので、得がたい友人のそれ以外の何物でもない。

 しびれを切らしてビブリンに伯爵夫人(グラフリン)の正体を問うたところ、なんと答えたか。魔法使いで、おとぎ話に出てくる伝説の英雄の腹心で、彼女がビブリンを製作したとかなんとか──いくらなんでも、主従そろいもそろって、芝居が過ぎる。


 だが、識闘術(フィングリン)の上級師範たる“枯死を司る者ドーテュドスクレーヴア”であるリリには、人間が嘘をつくときの特徴的な識覚(イスラストリアミィ)の乱れを、ある程度、検知することができる。

 あそこまで荒唐無稽なホラ話を吹かれたら、分からないはずがない。

 なのに伯爵夫人(グラフリン)もビブリンも、乱れを全く見せなかった。

 この事実は、リリの理性をかき乱す、ありえない結論を示す。

 まさか──本当に──?


 そういえば彼女は、博物館(ミューレネム)で見出されたのであった。あの場所に保管されていた太古の魔法の道具が、彼女をこの世へ蘇らせたとでもいうのか──?


 ……リリは妄想を頭から追い出した。心の乱れは技を鈍らせる。


 伯爵夫人(グラフリン)と別れ、水汲みを終えると、帰郷本来の目的へと向かう。

 森の中の空き地──エルフの用語で「樹だまり(ウドフロプト)」と呼ばれる空間だ。森林の樹木の育成サイクルの中で自然とできあがる、まとまった空き地である。

 樹だまりがある程度の大きさに育つと、エルフは集落をそっくりそのままそこへ引っ越す。引っ越した後の樹だまりでは、(エルフ)の営みの結果として有機養分が残され、植物がよく育成するようになる。

 それは数十年のサイクルで繰り返される、エルフ特有の遊牧生活であった。


 リリがたどり着いたのは、育ちきっていない小さな樹だまりのひとつ。

 先客がいた。

 数人のエルフの男女が木漏れ日に照らされ、倒木に腰かけて寛いでいる。

 彼らはリリの姿を見ると、いっせいに立ち上がって礼をする。


枯死を司る者ドーテュドスクレーヴア、リリ様」


 エルフたちが挨拶した。

 ここは識闘術(フィングリン)の稽古場なのだ。


 四十年ほど前、リリは“枯死を司る者ドーテュドスクレーヴア”の称号を得て、黒の森(ズワニューデン)で常勤の識闘術(フィングリン)の訓練者になった。その後、チャリンド家へ仕えることを願い出て、大多数のエルフと同じく使用人の道を選んだ。

 だが、上級師範たる枯死を司る者ドーテュドスクレーヴアとなったリリは、黒の森(ズワニューデン)にとっても貴重な技術の継承者だ。身の振り方を自らの一存で決められるものではない。

 結局、定期的に森へ帰って後進の指導を行うことを条件として求められた。

 この帰省がその条件として定められた、義務を果たす旅なのだった。


 集まっていたのは、森に残って指導を行う役を担う師範格や、特に才能があると見込まれた若いエルフたちだ。

 その彼らと組み手や模擬戦を行う。

 誰一人としてリリに敵わない。

 しまいには、集まった者全員でリリに襲いかかってみるが、経験の乏しいものは地面に叩き伏せられ、師範格の者でさえ後ろをとられて降参するありさまだった。


「……参りました。リリ様。あなたの域に我々はとうてい及びません」

 師範格の男が背後にぴったりとくっついたリリに両手を上げて言う。

 残りの者はみな地面にうずくまったり、座り込んだりしている。

「及ばないという認識があなたの心に縛りを残すのです、アルカーフ殿」

 アルカーフと呼ばれた師範格の男がゆっくりとリリから離れ、振り返る。

 エルフにしては背の高い、精悍な体つきの男だ。

「門弟たちの前で叩きのめして、面目を潰さずにいてくれて感謝しますよ」

「それは買いかぶりすぎです。あなたほどの体格と技術の持ち主を、命を奪わずに無力化するのは難しい。我々は暗殺者ではなく、あくまで護衛者です。命を奪った時点で負けなのです」

「主人を襲うものへ容赦なく手を下すことも、時には必要なのでは?」

 と、ダメージから回復した門弟の一人が質問した。

 リリが答える。

「あなたたちが伺候(しこう)する対象を考えなさい。爵位を持ち、社会的なしがらみを抱えています。そこは暴力や流血といったものが禁忌とされる世界です。あなたが手を血で汚せば、それはそのまま主人のものとなります。殺人者の汚名を着るのはあなたではなく、雇用者なのですよ」

「正当な反撃であっても? 殺人者に反撃して殺せば、殺人者になるのですか」

「そう。理不尽だけど、暴力が忌避される世界で、私たちは暴力を制御しなければならないのよ」


 指導を終え、リリは集落への道を引き返していた。

 後ろからアルカーフがついてきている。


「あなたが連れてきたお客人ですが」と、アルカーフ。

「妙な人ですね。長老たちの居場所をしきりに尋ねるので、女王のスパイかと思いましたが、どうもそうではないらしい」

「長老の居場所を聞かれて、何と答えました?」

「決まり通りに。もうこの世にないと」

伯爵夫人(グラフリン)は悪い人ではありません。知識欲が人並み外れて貪欲なだけです。ですが、細心の注意を払って接してください」

「侍女のほうも変わってる。エルフに蒸留酒(スプリッタ)はないのかと聞いてきましたよ。ドワーフじゃあるまいし、火の力で酒なんぞ造るわけないのに」

「彼女は私もちょっとわかりませんね。耳を切り落としたエルフではないことだけは確かです。カールッドでは他家のエルフとも話をしましたが、人間とは思えないほど有能な召使いなのに、雇用の形跡がまったくないのですよ」

 アルカーフは目を丸くした。

「まるで密偵のようにお調べになるんですね」

「主人の周囲に近づくものはそれくらい調べないと」

「……やはり、あなたは森へ帰るべきだ、枯死を司る者ドーテュドスクレーヴアどの」

「その議論はずいぶん前に終えたはずですよ。後進の指導はあなたで充分でしょう、苗木の担い手クノルピナスマイカンヴアどの。門弟たちも前回よりずいぶん進歩しています。ふたりめの枯死を司る者ドーテュドスクレーヴアが出るのも時間の問題かと」

「それにはあと百年、いや二百年はかかるでしょうね」


 うっそうと茂る森は陽光を遮り、樹下を暗くしている。

 この暗さの中、エルフの装束に身を包む二人は、ほとんど緑に溶け込んでいる。

 陽光を失った樹下では植物の生育が阻害され、やがて、樹の寿命と共に、そこには「樹だまり」が現れるのである。


「召使いとしてチャリンド家に仕えると言い出した時は何を言っているのかと思いましたが、人間社会での経験は、あなたをよりいっそうの高みへと押し上げている。その技術の一端だけでも、黒の森(ズワニューデン)と流派のためにお伝えください、リリ様」

「私は識闘術(フィングリン)のために人間社会へ出て行ってるわけじゃないんですよ」

「では、なんのために?」

「根づきし(ところ)のために」

「分からないな。チャリンド家とはそんなに根づくに値する森なんですか? 爵位すらないと聞いていますが」

 リリは答えない。

「気を悪くしたら申し訳ありません。でも、これは本当のことです。史上最年少の枯死を司る者ドーテュドスクレーヴアというだけでも規格外なのに、人間社会での経験まで積まれているのですから、もう無敵だ。はっきり言いましょう、あなたの根名(タッキエナーン)にチャリンド家は見合っていない。識覚(イスラストリアミィ)を視て気配を察知するくらいならまだしも、瞬時に攻撃の軌道を見切ったり、行動の予測までしてしまうなんて、正気の沙汰じゃありません。一体どれだけの才能があればその境地にたどり着けるのか、私には想像もできない。あなた以外の誰がやれるというのです」

「私の妹があともう少しで、そこにたどり着いたでしょう」と、リリ。

 アルカーフは言葉に詰まった。

識闘術(フィングリン)は人を守る術。守るべき主人を得てこその技だと思いませんか」

「……あなたにそこまで言わせるチャリンド家の主人に興味が出てきましたよ」


 リリは黙って歩く。

 自分の主人が誰であるか。それがじつはクロード・チャリンドではないことを、常識的なエルフであるアルカーフに説明して理解してもらえるとは思えない。


 チャリ(スラタッキリン)ンド家(・イン・レ・フ)に根づ(ィヨルシュケッ)きし者(テ・チャリンド)という根名(タッキエナーン)と、実際の忠誠対象が違っていることがありえるなどとは、普通のエルフには信じがたいだろう。自分が()ではなく、その娘という、若木の樹齢にすら満たない人間の女性にのみ忠誠を捧げていると、普通の神経を持ったエルフが聞いたら果たしてなんと思うだろうか。


 リリは、アニエという名のたった一本の苗木からなる“森”に根づく、世界で唯一のエルフなのだった。

読まなくてもいい作中のメーノン語の解説


whenlhúm 【名詞】ハンモック、寝網、吊り床。網 when と ベッド lhúm の合成語

wudhófem 【名詞】ツリーハウス、樹屋。木 wud と 建築物としての家 hófem の合成語

wudflopt 【名詞】樹だまり。木 wud と 点、丸 flopt の合成語。英語でフォレスト・ギャップと呼ばれる、森林の育成過程で自然に生まれる空き地。

dótwudsklévua 【名詞】枯死を司る者。死んでいる dót と 木 wud と 管理者 sklévua の合成語

knolpinasmaikanvua 【名詞】苗木の担い手。苗 knolpinas と 運搬する者 maikanvua の合成語

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