第35話
チャリンド邸の地下階は使用人の領域である。
「地下」と言っても、採光のための窓が地表近くに設けられているので、半地下と表現したほうが正しい。
この地下階で個室が与えられているのは、二人しかいない。そのうちの一人が、すべての男性使用人を統括し、かつ主人のクロードへ給仕する特権にして義務を持つ執事のシャタルである。
主人の一家も寝静まった夜、そのシャタルの部屋に、珍しい人物がいた。
アニエのお付きメイド、リリだ。
「われわれは、お嬢様とノールドルストム子爵のご結婚を了承することにした」
と、シャタルがリリに告げる。
シャタルは細い切れ長の目が印象的な小柄なエルフの男で、人間の青年のように見えるがその実、ミュリエラを除けばチャリンド邸で最年長の人物だ。
彼の主人の気を散らさぬよう気配を消して壁際に侍る技術は、卓越した気配りの賜物と考えられており、その小柄さすら、主人たるクロードの体格を見すぼらしく見せないための配慮なのではと囁かれるほどだ。
だが、それは正確ではない。エルフ本来の魔力との親和性を応用し、人の心や動きが織りなす微細な感覚の流れを読み取り、主人やその家族の「意識の外」へ出ているのだった。
メイド服に身を包んだリリも、執事の装いのシャタルも、ともに未婚であるため、二人きりの状況は社会的にはあまり望ましくない。しかしこの二人は、ともにエルフに備わった「意識の外」へ出る技によって、少なくとも館に存在する人間には感知されていない。
そもそもが、男性使用人の頭ではあるものの、女性使用人を統括する立場にないシャタルが、下級使用人のメイドであるリリに命令を下すことはできないのだ。
その権限を持つのは、地下階で個室を与えられているもう一人の上級使用人──女中頭のユカラニエ夫人だけのはずだった。
しかし、彼女は人間族である。
エルフであるシャタルとリリの間には、別のルールと掟が横たわっていた。
「ご結婚はアニエお嬢様の本意ではないようです」と、リリ。
シャタルは首をかしげて応える。
なぜ疑義をさしはさむのか、といった風だ。
「多角的に見て、子爵家へのお輿入れはチャリンド家に益しかもたらさない」
わかり切ったことを今さら問うなと言わんばかりのシャタル。
リリは注意深く答えを返す。
「ご主人様は決めかねていらっしゃる様子ですが」
「ご主人様のご希望はチャリンドの叙爵。そのお望みに先んじて動くのは召使いの本懐である。……これは、われわれの意志なのだ」
シャタルは、チャリンド邸のエルフの使用人の総意として、アニエの結婚を推進するよう、リリに求めているのだった。
「私をそこに含めぬよう、お願いします」と、リリ。
シャタルは残念そうにリリを見つめる。
「……君は、まだチャリンド家に根づいてくれないのかね。君の根名は、すでに“チャリンド家に根づきし者”ではないか」
答えはない。
「君はもともと、奥様付きのメイドだった。奥様とともにご実家からチャリンドに入ったのであれば、いいかげん君もチャリンドに馴染むべきだ」
採光窓からの月明かりはリリだけを照らし、シャタルは闇に沈んでいる。
リリは静かに、しかしきっぱりと告げた。
「私はアニエ様の召使いです。これからもそうお考えください」
伝令から海軍司令部への出頭命令を伝えられたデミアルは、発令者の名を確かめて目を伏せた。カウド・ローム・グルーロク第四海戦卿。
──ついに、来たか。
要件はまず間違いなく、過日、テルフェリ邸にて、第四海戦卿の弟ビルニと決定的な対立を生んでしまった事についてだろう。
リアスタン号からの解任くらいは覚悟しなくてはならない。
出世もおしまいだ。
もちろん、自分の行為を後悔などしていない。遺恨のあるチャリンド家の娘だろうとなんだろうと、あのような所業の餌食になることを見過ごして得た出世と手柄で家門を飾ると考えただけで、屈辱で死んでしまいそうだった。
ただ気がかりなのは、妹の事だ。
これではますます嫁入りが遠のいてしまう。
それもこれもすべて、自分のせいなのであった。せめて彼女の持参金だけでも稼ぎ出さねば申し訳が立たないというものだ。
デミアルは、貴族が身分を隠して商船員として働いていた事例は過去にあっただろうかと思い悩みながら、海軍司令部の入口階段を上がった。
第四海戦卿の執務室には、カウドの他に副官の海軍士官がひとりいて、事務に没頭しているようだった
デミアルが執務机に着いて書類に何やらサインしているカウドに敬礼し、出頭を告げると、カウドは手を止めてゆっくりと頭を上げ、怒りとも物憂げとも取れぬ複雑な表情で、意外な事を言い出した。
「市場の一件は、ご苦労だった」
「は……?」
「海軍全体のドワーフへの波及を未然に防いだのは、司令部でも評価されている」
そう言われてやっと思い出した。
デミアルは、市場で発砲容疑をかけられたロウガム砲手長の容疑を晴らし、極刑を防ぎ、休暇の取り消しという懲罰に格下げさせていたのである。
「まさか教会を巻き込むとはな。聖エレフィエのとりなしによる奇跡の発現とは、よく考えたものだ。奇跡認定の調査で、数十年は結果が先送りだ」
聖エレフィエは、言い伝えられている事跡──博徒と共に旅をし、改心させたという伝説──から、賭博の守護聖人でもある。その奇跡の顕現というのは確かに突拍子もない話であったが、事件の落としどころに悩んでいた海軍と市議会は、この降ってわいたような教会の調査の申し出に飛びついた。
その調査というのも、何を隠そう、聖都大修道院じきじきのご足労だというのだから文句のつけようがない。
あれは発砲などではなく、イカサマ賭博を戒めるため、通りすがりの婦人の姿を借りて聖エレフィエがちょっとした訓示を与えたのだ──。海軍は兵器を紛失していないし、市議会の権利は侵害されていない。ドワーフ砲手の違法な賭博行為に海軍は遺憾の意を示し、適切な懲罰と再発防止を約束する。それで終わりだ。
「貴官の尽力は、記録される。まずはそれが一件」
そう言ってカウドは副官に目くばせする。
すると、副官の海尉は手早く書類をまとめると、何も言わずに執務室を出て行ってしまった。残るのは、デミアルとカウドだけである。
「で、卿はいかがなさるおつもりかな」
と、カウドが突然、貴族に対する敬称を用いて、口調を変えた。
グルーロク侯爵家の爵位はノールドルストム子爵家より上とはいえ、いまだ跡取り息子にすぎないカウドに対し、デミアルは当主である。敬称の使用は、軍務に就く者でなく、貴族同士の話が始まったというサインだ。
やはり、ついにきた、とデミアルは思った。
「と、いわれますと」
「噂通り、卿はチャリンド家の娘と婚儀を挙げるのかと聞いている」
「ただの噂です。でたらめなことです」
この答えにカウドは額にしわを寄せ、目を細めた。「弟の話と違うな」
カウドはどこまで知っているのだろう、そして、どのように話を伝えられているのだろうとデミアルは訝しんだ。
「チャリンド家の娘と私は、その場に居合わせたにすぎません。そこへ、大勢の人がたまたま通りかかり、口さがなく噂がたてられたのです」
「それでは」と、カウドは椅子に背をもたれかける。
「弟は、結ばれる気もない男から求愛を邪魔されたというのか」
「いえ、カウド卿、それは──」
「どうあっても、卿には、その娘に求婚してもらうぞ、ノールドルストム子爵!」
カウドは語気を強め、机をどんと叩いた。
「弟がチャリンド家の娘と恋仲だったなどという与太話を信じるほど、私も馬鹿ではない。あれのことはよく知っているからな」
どうやらビルニは兄にとんでもない話を吹き込もうとしていたようだ。
「だが、そんな弟の恋路でも、横恋慕だったのならまだマシだ。面白半分に邪魔されて女をかっ攫われたなどという恥をかかされては、たまったものではない」
「カウド卿、事実は──」
「事実はどうでもよい! 卿はチャリンドの娘に求婚するべきだ! それが紳士としての礼儀だろう! それとも、子爵は何の意図があってこのような侮辱を我が家に加えようというのか!?」
デミアルは心の中で頭を抱えた。
その頃、昼下がりのチャリンド邸では、アニエがある意味、栄えある日を迎えていた。
貴族の「友人」を初めてお茶に招いていたのだ。
もちろんその友人とは、テルフェリ男爵家のティネである。お互い私的に招待を繰り返すことで、貴族社会における「同輩」たる実績を積み上げていくのだ──が、アニエは実際そこまで考えてはいない。単に、仲良しと一緒に居たいだけだ。
チャリンド家の面々と共に、ミュリエラも紹介に与る。
ただし、ひそかにテルフェリ邸での花観の会をビブリオティカを通じて覗き見ていたミュリエラにとって、ティネは初対面ではないのだが。
そしてそのまま「友人同士の語らい」ということで、三人は温室でのお茶会に臨むのだった。
「伯爵夫人様とお知り合いになれまして光栄でございますわ」
と、ティネ。「お披露目式でも話題をお作りになってましたし。ぜひ、私にもお力添えをいただきたいものでございます」
「まあ、肩ひじ張らずにお付き合いいただこうかの」
「そうですよ、ティネさん。ミュリエラ様って、すごく気さくな方なんです」
「貴女にかかったら、だれでも気さくな人になっちゃうわね。ま、そういうとこが子爵を惹きつけたんでしょうけど」
アニエは「またか」とばかりに肩をすくめ、天を仰ぐ。
「もーぉ。ティネさんまでそんなこと言うの? だからー、あれはなんでもないんだって」
ティネがお茶のカップを置いて答える。
「そう言うけどね。アニエ、はっきりいって、子爵は貴女にとってかなりの良物件よ。あそこの家は財政的にやや芳しくないけども、おたくの場合、これは交渉材料になるわ。実家の経済力を背景にすれば、嫁入りしても邪険にはされないだろうし。ソヴリネだって貴女には頭が上がらなくなるはずじゃない」
「とは申されるが、ティネ嬢よ。こういったことは本人の気持ちが大切ゆえ」
「そうやって舞い込んだ幸運をえり好みしてたら、あっという間に行き遅れちゃうわ。……だいいち、アニエ、あなた、どうして子爵じゃダメなの? そんなに嫌うほどお付き合いしてないでしょ?」
「価値観。価値観が合わないの!」と、アニエはぷいと横を向く。
「逆に、ティネ嬢はノールドルストム子爵をよくご存じなのですかや?」
ティネは両手を広げる。「軽く、調べただけですわ、伯爵夫人様」
「まるで、むしろ、そこもとが子爵にご興味をお持ちの様子じゃな」
「なにをおっしゃいますの。結婚市場は戦い。戦いはすなわち、情報を制するものが勝つのですよ。未婚の貴族男性をあらかた調べてリスト化するなんて、どこの家の娘もやってますわ」
「え……そうなの?」と、アニエ。
「そうよ? ……やっぱり、やってないのね。知ってたけど。そのリストの中でもノールドルストム子爵はかなり上位に入る物件よ」
「ほう。わらわは、武人ということしか知らぬなあ」
「武人というか……海尉ですから、まあ、武人ですわね。リスクは跡継ぎを授かる前に海で命を落としかねない、くらいかしら。乗艦は快速巡航艦のリアスタン号だし、遠洋航海も珍しくないのよね」
艦の名を聞いて、ミュリエラはびくりと震えた。
「ティネ嬢。今、なんと申されたか」
「え? ……なにがですか?」
「フレガーテとやらの……その、船の名前なのじゃが」
「ああ。リアスタン号ね。ご存じなのですか?」
ご存じも何もなかった。その名をこの時代の人から聞くのは初めてだった。
叫び出したい気持ちを抑えて、注意深く問う。
「…………その、リアスタン……という名前が何を意味しているのか、メーノンの人らは把握しておるのですかのう?」
「把握も何も。子どもでも知ってるわ」と、アニエ。
「伝説の英雄ですよ。おとぎ話ですわね」ティネはこともなげに答えた。
「……わらわはこの館の図書室へ入り浸っておるが、リアスタンの伝説に関しての書籍は見当たらなかったのじゃ」
「あ~~、それは……」アニエが頭をかいた。
「その本、私の部屋にずっと置いてるんですよ。子どもの頃から大好きな本で」
「本というか、絵本の類じゃないの?」と、ティネ。
「……アニエ嬢。その本、お貸し願えぬか。貴重なものとは思うが……」
アニエとティネは顔を見合わせた。
「ええ、もちろん。でも……どこでも売ってる、定番の絵本ですよ?」
読まなくてもいい作中のメーノン語の解説
takkienán 【名詞】根名。エルフの全名のうち、現在所属しているコミュニティを示す部分の呼称。根 takkie と 名前 nán の合成語
knolpennán 【名詞】種名。エルフの全名のうち、出生したコミュニティを示す部分の呼称。実が成る knolp の過去形 knolpen と 名前 nán の合成語
日本語:
卿はいかがなさいますか?
メーノン語:
quon loval fu dóa, fu éle?




