第32話
アニエは「曙光の間」へと近づいていった。
その様子はビブリオティカを通じてミュリエラも把握している。
「……まずい、まずいぞよ。なにか、尋常ならず、嫌な予感がするのじゃ」
『しかし、どうすることもできません。いっそ、ここで私が姿を変えますか』
「突然、召使いの女をどこからともなく眼前に現わせと? 確実に足止めにはなろうがの。騒ぎになってしまうわ」
『でしたらひとつ、提案がございます』
「申せ」
『私の中には、酒精を用いて変換した魔力がある程度貯蔵されております。むろん、ミュリエラ様の強大なる魔法の糧とするにはとうてい足りませんが。ですが、精神感応の念波を介して呪文を送ることで、この魔力を用いて何らかの魔法をアニエ嬢の前に発現させられるのではないでしょうか』
「……ふむ。試したことはないが、理論上は可能なように思える」
『問題は、どんな魔法を用いて何をなすかです』
「いつぞやのように≪火炎波≫を放ちでもしたら、アニエ嬢が疑われるのう。魔法と知られず魔法を使い、自然に人をそこに引き留めよと……しかも、やれることはたかが知れておる……」
『時間がありません』
「ならば、こうしてはどうじゃ」
ミュリエラは意識を集中し、魔法の術式を即興で編みはじめ、それをビブリオティカに送った。「極めて微小な破壊をなす魔法じゃ」
「──あっ」
アニエは小さく声を上げた。
首にかけた、伯爵夫人から預かったお守りのネックレスが落ちて転がったのだ。
あわてて拾い上げ、状態を確認する。金鎖が外れて繋げなくなっていた。
大切な友人の大切な品を傷つけてしまい、アニエは顔を青ざめさせた。
アニエが床にかがみこんだその時、デミアルは曙光の間へ足を踏み入れていた。
真っ暗だ──が、すぐに目が慣れ、ビルニがそこにいるのが見えた。
「……子爵?」ビルニの声がする。
「ビルニ卿。申し訳ないが、先ほどの件は、お断りさせていただく」
「なぜです?」
「名誉の問題です」と、デミアルはきっぱりと告げた。
「名誉。名誉ですか。あなたは何だって手に入るじゃないですか。名誉でも何でも手に入る。女も選び放題だ。少しくらい他人に分ける発想はないんですか」
デミアルは部屋の中を見た。
椅子と、小さなテーブルがある。
そのテーブルの上に、小さな鋏が置いてあった。
「なにをされるつもりだったんですか」
ビルニは照れるように笑う。「いや、なにね。婦人のドレスというのはデザインが違っていても構造は思いのほか共通してるものなんですよ」
「チャリンド家の娘のドレスと何の関係が?」
「そりゃあ、もう……ははあ、興味あります? ドレスのある部分に、こう、ね。ちょっと鋏を入れるとね。するっと、脱げちゃうんですよ。これが……」
デミアルは慄然とした。
つまり、目の前のこの男は……未婚の女性のドレスを不可逆的に傷つけ、人前に出られない状態にしようとしていたのだ。この衆人環視の場で。
そんなことをされた女性の名誉は永遠に失われ、どこにも嫁ぎ先はなくなってしまうだろう。ただひとり、犯人の男を除いて。
「げす野郎め」と、デミアルは低い声でうなった。
「きさまのような男の企みに、一時でも乗った自分を恥じる」
「なにを今さら気取っちゃってんですか?」と、ビルニ。
「あんたのような色男にはわかるまいよ。でも、ぼくにだって権利はある。女にありつく権利があるはずだ」
「口を閉じろ」
「チャリンドは貴族じゃないですよ、そうでしょ? 問題は起こらない」
「それ以上、下劣な言葉を私の耳に入れるな」
「ははあ、要するに、あなた、ぼくに妹さんを選べって、そう言ってるんですね。そうすりゃ、うちと縁続きになって昇進も──」
デミアルは鬼のような形相でビルニに詰め寄った。
「妹に近づいたら、ビルニ・ローム・グルーロク、貴様に決闘を申し込む」
気迫に押され、ビルニが口をつぐむ。
デミアルは回れ右すると、部屋を出て行った。
曙光の間から出て、デミアルはつかつかと回廊を歩く。
中庭を囲むようにして構成する回廊の四隅は、人の背丈よりも高い植え込みで遮られている。庭を敷地以上に広く錯覚させる技法だ。その植え込みの陰に、女性がかがみこんでいた。
アニエ・チャリンドだった。
「アニエ・チャリンド嬢」と、デミアルは呼びかける。
デミアルの姿に気づいたアニエは慌てて立ち上がり、一礼した。
「子爵閣下」
「お加減でも悪くなさいましたか」
「いえ、違うんですけど……ちょっと……」
アニエの手には金製のアクセサリーが握られていた。
どうやら、壊れてしまったらしい。
細工職人ではない自分にはどうすることもできない。それよりも、重要なことを伝えねばならなかった。
「貴女はここから先へ行かれるべきではありません」
「えっ?」
「詳しくは話せませんが、裏切り以上にひどい目に遭われるでしょう」
その通り、話せるわけがなかった。身分だけは高いが想像を絶するほど下衆な男が、説明するのも忌まわしい行為をするために待ち受けているなどと。
「でも、妹さまが……」
「それはもういいのです」
デミアルは、自分が嘘をついていたとはどうしても言いたくなかった。
「よくはありません。私はソヴリネ様とお話をしなければ」
──弱ったぞ、この子、意外に強情だ。
「今日はご婦人どうしの友情を育む日ではありませんよ。貴女はお披露目式の勝者でしょうに。話をしたいと望む男はたくさんおります」
「それが、今日はひとり、とってもいいお友達ができたんです。ひとりできたのなら、ふたりできるかもしれません、そうでしょう?」
アニエは、自分の行く手をさえぎる背の高い軍人を見た。
ありていに言って、ちょっとかっこいい。自分の父の背が低いからではないだろうが、こうして自分よりも上背のある男性を間近で見る経験はあまりなかった。
優しく気を使ってくれる人という印象を持っていたのだが、残念なことにこの男、まったくわけのわからないことばかり言うのだ。
「どなたとご友誼をお結びに」
「ティネさんですよ」
「ティネ嬢ですか。ティネ嬢は今日のホストですし、どなたともご友人のように振舞うでしょう」
と、まるでティネが、特に自分を友人とは選ばなかったようなことを言う。
アニエは自分でも不思議なくらい、むきになった。
「ティネさんは違いますわ。私にはわかります。ですから妹さまとも友人になれると思います」
「ソヴリネは貴女が考えるような人間じゃありません」
これにもアニエは呆れてしまった。この軍人は、血を分けた実の妹をそんなふうに言うのだ。コリノが友人を作れない人間とは、アニエも考えない。
「ひどいおっしゃりようじゃありませんか、子爵閣下。ご自分の妹さまなんですから、少しはお庇いになったら?」
デミアルは焦っていた。
この場所──中庭の隅の植え込みで遮られた回廊──は、ちょうど周囲から絶妙に視線の遮られるスペースなのだ。そのように作ってあるのだから仕方ない。
問題は、人気のない場所に結婚前の女性を連れ込んでいるのと変わらない状況になっていることだ。これでは、自分がビルニと一緒ではないか。
「とにかく、場所を変えましょう。水仙の花の見える場所はいかが」
「ええ、そうですね。場所を変えることにします。まず、そこをおどきくださいな、子爵閣下」
「おい、いい加減にしてくれ、こっちは君のために──」
「さあ、皆さま! こちらをお通りになって、ここを曲がって、そして進みますとわが家の秘密に突き当たります。人呼んで、曙光の間でございます。今しがたこの時間、そこから見える景色といったらそれはもう、風情のあることでございまして──って、え? アニエ?」
デミアルとアニエがほとんど顔を突き合わせるような距離でいたところに、ティネが数人の男女を引き連れて植え込みの回廊にやってきた。
そこで彼らは、文字通り、二人きりで顔を突き合わせるような距離で何やら話をしていた男女に出くわすこととなった。
片方は、子爵にして海尉、デミアル・ローム・ノールドルストム。
そしてもう片方は、今年のお披露目式で素晴らしいドレスを披露し、現在、カールッドのファッションの最先端を行く美女、アニエ・チャリンドである。
「……っと、お邪魔……を……してしまった……のかしら?」
ティネが目を泳がせる。
そして、ティネに連れられた令嬢たちは、先ほどのノールドルストム子爵の言葉を思い出すのだった──「人を待たせているのを思い出しまして」。
デミアルの背後、曙光の間から、顔をしかめたソヴリネが駆け出す。
そして回廊の先で兄とアニエ・チャリンドが寄り添うように立ち、それを観客が見守っている場面に出くわしてしまった。
続いて同じ部屋から、へらへら薄ら笑いを浮かべたビルニ・ローム・グルーロクが出た。同じくビルニはアニエ・チャリンドとノールドルストム子爵が並んで立つ様子を見ると、笑うのを止め、一転、凄まじい形相で子爵を睨み始めたのだった。
『ミュリエラ様……』
「……」
『ミュリエラ様?』
「……うむ、ビブよ」
『いかがなさいますか』
「いかがもなにもあろうか。わらわとて、どうにもならぬものがあろうよ……」
【お知らせ】
2日に1回の更新ペースで書いてまいりましたが、リアル事情の変化により、次回から掲載は不定期となります。ペースは落ちますが、書き続けます。どうぞよろしくお願いいたします。
読まなくてもいい作中のメーノン語の解説
fu 【人称代名詞】二人称単数形主格
skovni 【形容詞】卑劣な
fette 【名詞】男、やつ、やっこ、輩。古語表現に近い




