第30話
ノールドルストム兄妹がテルフェリ邸に到着すると、招待状を持たない男性──すなわちデミアルの姿を見て、テルフェリ家の従僕は判断に困り、本日のホストであるティネを呼んだ。
「ノールドルストムさん。ようこそお越しくださいました」と、ティネ。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「そちらの方は、もしかして……」
「はい、私の兄、ノールドルストム子爵、デミアルでございます」
「本国にご帰着なさっているのでしたら、招待状を用意するべきでしたわ。ご乗艦は遠洋に出ていると聞き及んでおりましたので」
「任務再編のため、リアスタン号は整備と休養を兼ねて帰港の予定だったのです」
デミアルが答える。「差し支えなければ、お宅の水仙を拝見させてもらいたく」
ティネはデミアルを見た。
きっちり整えられた海軍の制服に光る、ぴかぴかの海尉の階級章。
背は高く、ぴんと伸びている。妹のソヴリネに似て整った顔立ちは日に焼けてはいるが粗野ではなく、逆に精悍さを際立たせていた。
冒険や異国の文化に彩られた航海の話は、会話にひときわ華を添えるだろう。
おまけに──これが最重要の点なのだが──子爵は未婚である。
ノールドルストム子爵の飛び入り参加は、会の主催者としてのテルフェリ男爵家の名声を高めること間違いなしであった。
ティネはにっこりと微笑んだ。「もちろん。帰ると言われても逃しませんわ」
ティネがデミアルとソヴリネを連れて中庭へと入ると、新しい友人に微笑みかけたアニエの顔は、ソヴリネを見て凍りついた。
「アニエ。紹介するわ。ノールドルストム子爵閣下よ。それから妹さんの……あ、知ってる……わよね」
ティネはお披露目式でソヴリネがアニエに「食らわせた」現場を見ている。
「お久しぶりね、チャリンドさん。今日はご家族で御用聞き──」
「初めまして、デミアル・ローム・ノールドルストムです」と、兄が妹の侮辱の機先を制する。「……花を愛でるには良いお日柄で」
「子爵閣下、お嬢さま。良いお天気でございます」
アニエは訓練された受け答えで仮面をかぶってしのぐ。
ソヴリネは母熊の庇護のない子熊を一刺しする機会を遮った兄に驚いていた。
デミアルはソヴリネが口を開く前に一礼し、妹を連れてその場を離れる。
「どうしたんです、お兄様? あれはチャリンドの娘よ」
「……ソヴリネ。あまり、表立ってはやめたほうがいい」
「お兄様らしくないわ。あの家が憎くないんですの?」
デミアルは答えなかった。彼自身も答えられない自分が意外だった。
もちろんチャリンド家は仇敵だ。しかし、デミアルは先日、チャリンド家に一矢報いるつもりで、心奪われた女性をそれとは知らず火あぶりにしかけた。その件が心にひっかかり、復讐の炎は後悔と贖罪の念でいくぶんか勢いを削がれていた。
「……私はごめんですわ。チャリンドの後塵を拝するなんて」
「我が家は爵位を失わない。チャリンドが叙爵されるなんてことは起こらないんだから、焦るな」
この言葉を聞いてソヴリネは憤慨した。
「ええ、そうね、ノールドルストムは爵位を失わないわ! でも、私とお兄様では立場が違う。お兄様はノールドルストムでいられるけど、私と私の子孫は嫁ぐ相手によって名誉ある人々でいられなくなるのよ」
「お前の価値は嫁ぎ先で決まったりしない!」
「なら、あのチャリンド家の娘をお娶りになればよろしいこと。お兄様の妻の身分でノールドルストムの価値は決まらないと仰るのでしたらね」
ソヴリネは顔をそむけ、咲き乱れる水仙の花のあいだを足早に歩いていった。
外に停めてある馬車の中では、ミュリエラがビブリオティカを通じて、アニエとソヴリネの再会の様子を把握していた。
「ほう、ソヴリネ嬢も来ておるのか」
『お披露目式のような事態にはならなかったようです』
「冷や汗が出るのう。こうして様子は窺えても、助けに入ることはできぬゆえ」
『そもそもなのですが、なぜミュリエラ様は私をアニエ嬢に持たせたのです?』
「まず第一に情報収集じゃな。この時代における未婚の男女が集う場というものを見知りおく必要があると考えたゆえ。わらわもこういった場を通じてリアスタンと結ばれたという仮定になっておるのじゃろうから」
『結ばれておりませんが』
「煩い、黙れ。……しかしソヴリネ嬢の横にいた者、あれがノールドルストム子爵であったか。たしか、わらわを魔女として告発する片棒を担いだ男だったはず」
『ミュリエラ様、お忘れですか?』
「む?」
『過日、カールッド東広場にてドワーフに追われた際、助けてくれた軍人ですよ』
「…………ああ!」
ミュリエラは魔女の嫌疑が晴れた後、ソヴリネに短い私信を送っていた。
それは「誤解と行き違いであのような形になったが、教会はある種の遺産を引き渡す目的で自分を呼び出したのだ」と説明し、気に病むなと伝える内容であった。
「ソヴリネ嬢には何ら恨みはありはせぬよ。じゃが、あの兄には、いささか注意を要するのう。美丈夫じゃが」
足早に去った妹を追おうとするデミアルの背後から、声をかけるものがいた。
「やあ、ノールドルストム卿! またお会いしましたね」
この声は忘れようがない。デミアルはいらつく表情を抑えてから振り返り、あいさつした。「ビルニ卿」
卿とは、貴族の男性に対する一般的な敬称である。その用法には厳密なルールがあり、家名に冠する場合は貴族家の当主の呼称となる。それに対し、貴族の子弟には個人名に冠して用いる。
「今日いらっしゃるとは思ってなかった。妹さんも一緒ですか?」
「ええ、来ております」
──自分がここにいるのは、お前と妹を会わせないためだが。
「お会いできますかな?」
「さあ、どうでしょう。今しがた、水仙を観に行ってしまいました」
ビルニは水仙の花畑と、その間を行き交い、談笑する男女を見渡した。
「見事な水仙だ。でも見てください。誰も花なんか、興味を持っちゃいない。あなたもそうでしょ?」
デミアルは正直、否定できなかったが、同意もしたくなかった。
「はっきり言いましょう。妹さんはぼくを嫌ってますね」
「そうでしょうか?」と、デミアルは表向き疑問を呈しながらも、この男がそれを感じ取るだけの心配りを持ち合わせていることに驚いた。
「わかりますよ。それくらいはぼくだってね」
「こういったことは本人の気持ちが大切ですから、私から何とも……」
「ああ、違いますよ。妹さんとの仲を取り持ってくれってんじゃないです」
ビルニは水仙の花畑の向こうで、ティネと一緒にいるアニエを顎で示した。
「可愛いですよね。好みだ」
「……どちらですかな?」
「冗談を言っちゃ困ります。わがおぞましき縁者ではなくて。お披露目式で見かけてから気に入ってましてねぇ」
アニエ・チャリンドのことだ。
「顔もいいし、何より、こう……ぼくは、ああいうのがそそるんです」と、ビルニは手で胸のあたりを大きく囲った。
「彼女と仲良くなるのを手伝ってくれませんか?」
「えっ?」
「ぼくとアニエ・チャリンドが仲良くなるのを、です」
「私は彼女の兄ではありませんが」
「でも、あなたならどんな女だって言う事を聞かせられるでしょ。未婚で、子爵で、しかも海尉で、おまけに美男子ときた。さっきから女どもがあなたのほうをちらちら見てるのに気が付いてないとは言わせませんよ。ぼくがここを離れようものなら、連中、どっと押し寄せるに違いない」
「私に何をしろと言われるんですか」
「ぼくはこの屋敷をある程度知ってましてね。玄関から見て中庭の反対側の回廊、あそこには中庭を見渡しながらお茶を飲むための部屋があるんですよ。そこに彼女を誘導しちゃくれませんか」
デミアルは、ビルニがアニエ・チャリンドと二人きりになるタイミングを作ろうとしていることに気づき、不快感をあらわにした。
「私は女衒じゃありません」
「ちょっとだけですよ。ほんのちょっとだけです。それに、あなたにも利益はある。ぼくは妹さんに近づきませんし、兄にはあなたのことを良く言っておきます」
ビルニの兄カウド・ローム・グルーロクは、第四海戦卿である。海軍の総司令官が第一海戦卿で、その別名は「海における女王の代理人」という。この第一海戦卿の下でブレーンや側近として任じられるのが第二、第三、第四……と続く海戦卿たちであり、彼らは海軍司令部の重鎮だ。
そもそも先日、ビルニとその兄のカウドを夕食に招いたのも、第四海戦卿の心証をよくして出世につなぐためのものだった。
デミアルは目を閉じ、誇りと道義心を押し殺し、これで名誉を失うのは貴族の女性ではないと自分に言い聞かせた。
「少しだけですよ。間違っても滅多なことはしないと約束してください」
読まなくてもいい作中のメーノン語の解説
éle 【名詞】~卿。ロード。男性貴族の敬称。栄光 él の対格変化 -e が語源
mwurshbaléle 【名詞】海戦卿。メーノン王国海軍の役職名。海戦 mwurshbal と卿 éle の合成語




