第12話
ミュリエラはチャリンド家に着くと、すみやかに図書室へ向かった。
かすかな違和感はあった。
ミュリエラにとって「魔王の討伐」とは明白な歴史的事実どころか、自分が当事者だったくらいだ。
ゆえに、盲になっていたのかもしれない。
この世界にはかつて「魔王」が存在し、勇者によって討伐されて久しいことは現代において常識で、人々にも広く共有されていると思い込んでいた。
あれだけ読んだ書物の中に、魔王の「存在」に言及した記述はいくつあったか。
エルフはかつて魔法の技に長けた種族だったと記述した内容はいくつあったか。
思い返しても、浮かばない。
人間とエルフの関係の変化にしろ、千年前の経験と現代の書物の記述をつき合わせて、ミュリエラが自分で勝手に結論しただけのことではなかったか。
「──魔王や魔法の存在について、確固たる記述を残した者が、ないのだ!」
図書室の扉を勢いよく開ける。
部屋にはコリノ・チャリンド、この家の後継ぎ息子がいた。
「コリノ殿」ミュリエラが軽くお辞儀する。
「伯爵夫人」コリノも応えてお辞儀する。とても行儀のよい子だ。
「お邪魔して申し訳ござらぬ。ちと、思いついたことがございまして、足早に駆けてきたのですじゃ」
「邪魔なんかじゃありませんよ。どうぞ、ご用をお済ませください」
書物の量産技術の賜物だろうか。この時代には素晴らしいジャンルの本がある。
その名を「百科事典」という。
森羅万象の事物について見出しをつけ、ひとつひとつに簡潔な説明を記述したものだ。膨大な巻数の書物だが、できることならこの本全部を部屋に持ち込んで片っ端から読みふけり、ビブにも覚えさせてやりたいものだ。
該当する見出しを探しながら、ミュリエラはふと、チャリンド夫人に聞くつもりだったことを少年に尋ねてみた。
「コリノ殿。女王陛下と現王朝について、ご存じかや」
「謁見したことはないです。王朝についての一般的な知識なら、ドリアス先生から教わりました」
「わらわは無知ゆえ、そこもとから教えを乞いたい」
「ボナクレオン朝は、前王朝エンクレディオス朝最後の女王エリドレーダ二世にお子がいなかったため、妹のソシエ姫の生んだ男子がセスル六世として即位して始まった王朝です」
と、コリノは語り始めた。
「当代のエリドレーダ三世女王陛下は、ボナクレオン朝の四代目に当たります」
言葉によどみがない。これは頭の良い子だ。
「王家の紋章の意匠についてご存じかや」
「石の玉座とツタですね。歴代の王朝につきもののデザインです。王朝が交代すると、よく書き換えられます。理由はよくわかりませんが、慣習なのでしょう」
「ふむ……」
よく書き換えられる、という点をミュリエラは訝しんだ。
「ところで、伯爵夫人。ぼくからもお聞きしたいことがあります」
「おや、なんじゃ」
「あなたはこの時代の人ではないように思えるのですが」
ミュリエラはすんでのところで声を上げそうになったが、さも「驚いた」とばかりにわざとらしく手を挙げ、いたって平静を装いながら答えた。
「それは、またまた。いったいなぜそう思われたのですじゃ」
コリノはミュリエラに鋭く目を向ける。
「言葉遣いです、伯爵夫人。あなたはご自分のことを“わらわ”とお呼びになりますね。普通に“わたし”とか、野卑な労働者のように“おれ”とも発音されません。ぼくはこの図書室の本をあらかた読みましたけど、古代の写本の中に“わらわ”と読めそうな綴りの記述を見たことがあるんです」
図書室の本をあらかた読んだというさりげない発言にも驚くが、死語となった一人称の綴りの読み方まで推察する眼力に舌を巻く。
「それに、あなたは印章指輪をお持ちですね。みんな、ちょっと変だと思ってるんですよ。なぜ爵位継承者でなく、そのご内室が印章指輪をお持ちなのかと」
それはミュリエラも知りたい。
なぜこの時代の人々は、ミュリエラを女性の伯爵でなく、伯爵の夫人扱いするのか。
「母上や姉上は、あなたの言葉遣いも、印章指輪も、ぜんぶひっくるめて、外国の風習なのだろうと思っています。でも昨日、ドリアス先生から歴史の授業を受けて知ったんです。ずっとはるか昔、伯爵は“グラフ”と呼ばれていたと」
ミュリエラが目を見開く。今度は我慢できなかった。
コリノは手元の歴史書を示す。「調べたら、数百年以上前に遡るそうですね」
少年が図書室にいた理由をミュリエラは知った。
「外国の君主がメーノン王となり、王朝が交代したさい、外国語の一部がメーノンの宮廷に導入されました。伯爵もその一つです。そこでぴんときたんです。伯爵は伯爵に替わったけど、その妻を意味する伯爵夫人という言葉は残ったのではないかと。それで、ぼくたちは伯爵の配偶者をアルムリンではなく伯爵夫人と呼んでいるんです」
たまらなくなってミュリエラはコリノに向かって歩き始める。
「つまり伯爵夫人。あなたは爵位継承を男性に限った限嗣継承法もなく、女の伯爵というものが存在して、しかもその爵位は伯爵と呼ばれていた、数百年前の中世の人物──」
ミュリエラはコリノを力いっぱい抱きしめた。
「みたい……に……おもえる……んです……けど……」
初めて家族や子守以外の大人の女性に抱きしめられて、コリノが絶句する。
嗅いだことのない匂いが少年の鼻孔をくすぐった。
ミュリエラはコリノを離し、肩をつかんで言う。
「そうなのじゃ! わらわは【海嘯の魔女】、ミュリエラじゃ! 千年前のメーノン王国からやってきた、【勇者】リアスタンのパーティーの、魔法使いなのじゃ!」
コリノはあっけにとられ、きらきらと輝く目で見つめるミュリエラから視線をそらした。
「馬鹿なこと言わないでください。ぼくを子供だと思って」
少年は足早に図書室を出て行ってしまった。
ミュリエラは、自室でビブリオティカを手に取り、細工を加えていた。
この時代、マントは屋内で羽織るようなものではないらしいので、ミュリエラはビブリオティカのぼろぼろになった布地を取り払い、アクセサリーに加工してしまおうと考えていた。
鼻歌を歌いながら、メイドから借り受けた裁縫道具でマントを断ち切り、ビブリオティカの「本体」である留め具の部分から丁寧に糸をほどいていく。
『ミュリエラ様。ご機嫌がうるわしいようですね』
「であろうの。実は天才少年がわらわの素性を言い当ててしまったんじゃよ」
『それってまずくないのですか』
「まずくはあるまいよ。わらわが嘘などついても、どうにもならぬ」
残った留め具の本体部分と、金鎖を繋ぎ合わせる。
これは衣装合わせの時、チャリンド夫人の宝石箱の片隅に転がっていたのを見つけたもので、もともとは別のアクセサリーの部品だったらしい。夫人に頼んで譲ってもらったのだ。
「あのコリノ少年、千年前ならば真っ先に弟子に取っておったところよ」
『相当の才能なのですね。ミュリエラ様がそこまでおっしゃるのは初めてです』
ミュリエラの謎を簡単に解き明かしてしまった少年の才能にも舌を巻いたが、謎はまだ残されている。図書室の本はまだほんの一部しか読めていないが、やはり「魔王」「魔法」というものの存在自体が忘れ去られているか、慎重に覆い隠されているのがわかった。
理由は分からない。人為的だとしたら、気の遠くなるような陰謀だが……。
「そら、できたぞよ。これをこうして」
金鎖の輪で繋ぎとめられたビブリオティカを、ルドラルフ夫人の店で譲り受けたものに掛ける。
「なかなかではないか」
『なかなか……なのでしょうか?』
「ま、あのアニエ嬢の装いに比べれば地味なものよ。わらわは主役ではないしな」
お披露目式は、二日後に迫っていた。
読まなくてもいい作中のメーノン語の解説
ailvistenaslafómobunt 【名詞】百科事典。すべて ail 知識 vistenaslaff 言葉 ómo 書物 bunt の合成語
alm 【名詞】伯爵。glafと同義。